第1回
西陣ってどんなとこ?
Written by 渡邊珠生
* なんで西陣っていうの?
そもそも、「西陣」という名前はいつ、どんな風に生まれたのかという話。
それは、室町時代の1467〜1477年におきた応仁の乱まで、話は遡ります。幕府内の争いから全国規模にまで発展した応仁の乱ですが、そのような中で、東軍の細川勝元が堀川東に陣を置いたのに対して、西軍の山名宗全が堀川西に陣を置きました。
現在も、山名町北側に「山名宗全邸宅跡」の石碑があり、その場所に西軍陣地が置かれていたことをこの目で確かめることができます。
山名宗全ってどちら様??彼は、幕府における大名の家格、四職衆のうち山名家の武将です。
四職衆は幕府の侍所の長官を交代で務めており、京極・山名・赤松・一色の四氏で構成されていました。
ちなみに、敵軍の細川勝元は、三管領という異なる大名の家格に属する、細川家の武将です。
さっそく歴史の小難しい言葉がわらわらと出てますね。
ざーっくりいうと、2人は異なる役職に就く幕府のお役人さんです。その2人の陣地が、それぞれ東と西。
このことからわかるように、「西軍の陣地跡」、つまり「西陣」という地名が生まれ、今日まで残っているわけです。
* 織物と西陣と東陣
多くの人が「西陣」と聞いて、真っ先に思い浮かべるであろう西陣織。西陣で生産される織物だから「西陣織」。先ほどの話から考えると、「西陣」という地名が先にできてから、織物に名前がついたということがわかりますね。
ここで少ーし気になることがありませんか?
そう、「西陣」があるなら「東陣」は?
実際、細川勝元が陣地を置いていた場所も、同じように「東陣」という名前がありました。
ところが、「東陣」は早い段階で失われています。なぜ???実は、西陣織ができるもっとずっと前から、この辺りは織物の生産が盛んでした。応仁の乱の際に、戦禍から逃れるため堺など外部に移住していた織物職人達は、乱後、再び京都の地に戻ってきました。
彼らは西軍陣地跡「西陣」と東軍陣地跡「東陣」の地で、それぞれ異なる集団を組織し、機業を営むようになります。ちょうどその頃、現在の中国の地を統治していた明という国から、綾織という新しい織物とその製法が伝わったのです。
すると、その織物の権利を巡って2集団の間で争いが起り、その結果西陣が勝利!東陣での生産は禁止されてしまいました。それ以降は西陣での独占的な生産となり、次第に東陣での織物産業は衰退、それと同時に「東陣」という名前もなくなっていったのでした。
だから現在は、「西陣」という地名のみが残っているのですね。
* 西陣ってどこ?
では、西陣はいったい全体どこにあるのでしょうか。
具体的に言うと、「上京区大宮今出川を中心として、北は盧山寺通り、南は一条通、東は堀川通、西は千本通、に囲まれている」ところが、古くから中心となって西陣織が生産されていた場所、「西陣織の発祥の地」です。(引用:立命館大学兵藤友博研究室「西陣のこと/2002.6.15」谷口美好)時代は進み、西陣織産業も発展していきます。
すると、それに伴って西陣と呼ばれる範囲も拡大していきました。
現在は、京都市上京区にある山名町を中心に、楕円形を描いて東は烏丸通、西は西大路通、南は丸太町のあたりをとおるその範囲に入る区域が、一般的に西陣と言われています。(諸説あり)
実際に地図で見てみましょう。
ピンクで囲まれている所が「西陣織の発祥の地」、青の円が現在の西陣です。青い点は、山名宗全の邸宅跡の位置を示しています。
その成長っぷり、お分かりいただけたでしょうか。産業が発展していくことで、こんなにも町が大きくなっていくなんてびっくりですね。
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ぶらニシ記念すべき第一回は、西陣という地域自体について見てきました。どうでしょう、ここまでで織物の登場回数が多いなあと感じた方も多いのでは?そこで第二回は、西陣とは切っても切り離せない織物について、その関係性を歴史の視点から読み解きます。
次回もお楽しみに!!
参考:『京都の地名検証2 風土・歴史・文化をよむ』 京都地名研究会 編 2007/立命館大学兵藤友博研究室「西陣のこと/2002.6.15」谷口美好/「西陣、応仁・文明の乱戦跡」/京都寺社案内(西陣、応仁・文明の乱戦跡)/西陣織工業組合HP/国史大辞典/デジタル大辞泉/日本大百科全書/世界大百科事典/日本国語大辞典