町家古書はんのき

 

千本丸太町を西に進み、カライモブックスという古本屋へと繋がる細い路地を右手に見ながらさらに西へ進む。少し進んで、これまた細い路地を入り込めば、道路の両脇に並んだ町屋たちの中に「町屋古書はんのき」はある。

 

 

古本屋に限らず、初めてのお店に入る時は少しばかり緊張感する。お店というのは、そのお店を営む人のテリトリーであり、そのテリトリーに足を踏み入れるわけだ。商売はお客がいなければ成り立たぬのだけれど、そうは言っても、決して客が優位に立っているのではないから「お店におじゃまします」という気持ちを忘れず、お店の扉をそっと開けるのだ。

 

いかにも町屋らしくガラガラと横にスライドさせて開けるタイプの扉を開ければ、左手には本棚がいくつか並び、比較的価格の安い本が並べられている。頻繁に本屋を訪れる人ならわかってくれるかもしれないけれど、気になったものはなんでもホイホイ買ってしまう。未読の本があるにもかかわらず、ホイホイ本を買ってしまう。これでは読まずに積んでいる本、通称「積読」が増えていく一方だ。本というのは、実に困ったものだ。

 

前回訪れたカライモブックスは歴史・政治・社会・哲学などの本が多かった印象だが、こちらは広義のアートに関するものやエッセイ、あとは小説などが多い印象だ。絵本や古い雑誌なども置いてある。僕は映画史について知ることが好きなので、映画に関する本の棚があれば、その前で立ち止まってしまう。音楽も好きなので、音楽の棚の前でも立ち止まってしまう。画集なんかをパラパラとめくるのも好きなので、展覧会の図録が並んだ棚の前でも立ち止まってしまう。立ち止まれば立ち止まるほど、棚から抜いてめくってしまい、本をめくればめくるほど欲しい本は増えてゆく。本屋というのは実に困った場所だ。

 

僕ははんのきで2冊の本を買った。ひとつは小林信彦の『コラムの冒険』であり、もうひとつは植草甚一の『ぼくの読書法』だ。古本屋に行くと、小林信彦や植草甚一という名前にはよく出会う。昭和の時代に、様々な文化についての文章を書き、多くの本を残している。小林信彦はまだまだ現役で、つい最近も本を出していたのを見かけた。彼らが若い頃に夢中になっていた文学や映画、音楽を同時代的に体験することができない僕にとって、彼らは伝説のような人に思えてならない。

 

「はんのき」という古本屋は特殊な古本屋である。何が特殊かというと、ひとつの店舗を3つの古本屋が共同で経営しているという点が特殊なのである。実店舗を持たない「古書ダンデライオン」「古書思いの外」「空き瓶Books」という3つの古本屋が、それぞれに仕入れた本を「町屋古書はんのき」という場所へ持ち寄り、日替わりで店番をしながら古本を販売している古本屋なのである。京都は同志社大学の近くで6年ほど営業し、その後、現在の場所へ移り6年ほど、お店は13年目へ突入したという。複数の店でひとつの店舗を経営するというのは、単独でお店をやるよりは家賃周りの出費が軽減されて合理的ではあるけれど、複数で経営するからこその煩わしさや難しさもきっとあるだろう。将来自分のお店を持つことを夢に掲げる者として、なんとも興味深い話だ。何度も通ってお店の人と仲良くなったらお店を持続させていくことの極意とやらを聞いてみようかしら。