千本中立売を西へ進んだ後ちょっと入り組み、下長者通りを自転車で走る。細い路地から、さらに細い路地へ入ると、「古本」と白い文字で書かれた看板が見え、初めて訪れる今回の目的地を見つける。カライモブックスだ。その細い路地を進み、カライモブックスに近づくと、カライモブックスの看板が鮮明に見えるようになる。

 

 

看板に近づいてみれば、長方形の木の板に書かれていた「古本」という文字は白いテープで作られたものだということがわかる。所々テープは剥げ、「本」の右側に位置するはらいは、もはや点になっているが、「本」という字を「本」という字として成立させるために、かろうじてその一部だけは木の板にしがみ付いている。そんなテープをみれば、「古本」という文字たちが急に愛くるしく思え、なんとかして「古本」と認識しようと脳を働かせ、カライモブックスを発見するに至る。「古本」という2文字から無意識にカライモブックスをカライモブックスだと認識しているけれど、実はこんなドラマが無意識の中には隠されているのかもしれない。

 

そして「古本」の上には懐かしのアイロンビーズによって「カライモブックス」という店名が掲げられる。一風変わったヘンテコで可愛らしいフォントの看板を見るのは大好きだけれど、手作り感満載の看板ほど心温まるものはそうそう見当たらない。

 

 

唐芋色(唐芋はサツマイモの別称であるらしい)ののれんをくぐり、町屋らしい横開きの扉をガラガラガラと開けば、玄関の壁を覆う大きな本棚には300円以下の本が詰まっている。文庫本、単行本、雑誌、図録なんかが身動きの取れないほどギュウギュウに並んでいて、サガンなんかの海外文学が固まって置かれたりしていて、僕は大きな棚の中からジャズレコードのカタログとジャン=フランソワ・ミレー(『落穂拾い』で有名なミレー)の展覧会の図録なんかを見つけると、ときめかずとも「おっ」とは思い、手にとってしばらくパラパラとめくっては棚に戻す。大きな本棚に夢中になって忘れていたけれど、ここはまだ玄関。本屋は奥へとつながっている。大抵の日本人がそうするように、玄関でサンダルを脱ぎ、揃え、スリッパに履き替え、それ以上でもそれ以下でもない、いかにもな廊下を進んでいくと、そこは、それ以上でもそれ以下でもない、いかにもな古本屋で、
そんな古本屋を訪れると、大抵のひとがそうするように、僕は棚をまじまじと見つめ、ささっている本たちの背表紙に記された書籍のタイトルを目で軽く撫でてゆく。

 

 

棚を見ていると、どうやらアカデミックな古本が多いらしいということに気が付く。政治、歴史、社会学などの学問的な、専門的な書籍が多い印象だ。この手の本は小難しくてやたら分厚い傾向にある。なので、僕は余程興味のある分野についての専門書でなければ読み通す自信がないので買わないことにしているが、それがもし自分の興味の範疇にある分野だと、まだ読めていない積読の状況も鑑みずについつい買ってしまうもので、映画にまつわる本を1冊手に入れた。

 

レジを打ってもらう際に、osanoteを数冊ほど渡し、代わりにカライモブックスが発行しているフリーペーパーをもらった。フリーペーパーを手渡すという行為は何かに対する愛を知ってもらうという行為で、osanoteの活動を通して愛を知ってもらう経験はいくつかしてきたつもりだ。けれど、もちろんその何かに対する愛を手渡す人がいるならば、受け取る人もいる。いつもは何気なくもらうフリーペーパーも、「交換」という形で初めて渡し手・受け手を強く意識してしまう。何かに対する愛の交換は、絶対的な数字では図ることはできない価値を確かめ合っているかのようで、何故だかはよくわからないけれど、あたたかかった。