車両が慌ただしく行き交う千本通に「石像寺」という名のお寺がある。通りから眺めて確認できるその佇まいは非常に謙虚なもので、うっかり通り過ぎてしまいそうなくらいにひっそりと街に馴染んでいる。
一般に「釘抜地蔵」の名で知られる石像寺は心や体の痛みを抜き取るというご利益があり、西陣の近隣住民が参拝に訪れ、地蔵尊に手を合わせている姿が見られる。境内の奥まったところにある地蔵堂の堂前には「やっとこ」の形をした大きな鉄製の釘抜きがあり、軒の下には存在感のある赤提灯が重々しくずらりと並んでいる。印象の強いそれらが境内に居座っている様子は、千本通から眺めた時の静かな装いとは対照的であり、まるで住宅地の中にぽっかりと空いた異次元に迷い込んでしまったかのような、不思議な感覚に包まれる。
不思議な感覚に包まれるもうひとつの理由として、石像寺に古くからとある霊験譚が伝わっていることも挙げられるだろうが、その話は石像寺が釘抜地蔵という愛称で呼ばれるようになった由来にまで遡る。
室町時代、紀ノ国屋 道林という商人がいた。あるとき、わけもなく両手が痛み、さまざまな手を尽くし治療につとめたが一向に回復することがなかった。そんな時に苦抜地蔵のことを耳にした道林はさっそく地蔵尊にお詣りし願をかけたところ、夢の中に地蔵尊があらわれ、
「汝の痛みは前世の人をうらめ、人形の両手に八寸の釘を打ち込んで呪った罪障によるものだ。よってその釘を抜き取って、汝の苦痛を救ってとらせよう」
と言い、2本の釘を示すと思えば夢が覚め、両手の痛みはすでになくなっていた。その後、道林が寺へ駆けつけてみると、地蔵の前に血で染まった二本の八寸釘があったといわれ、それより石像寺は苦悩解消に霊験があると伝えられている。
(参考:竹村俊則 京のお地蔵さん)
苦抜きの祈願をした参拝者は、願成就して苦が抜けた際にお礼として釘と釘抜きを額にした小絵馬に奉納するようになり、1000枚を超えるその小絵馬は地蔵堂の周囲に埋め尽くすように配置されている。室町時代から500年近い時間を経ても信仰深く訪れる参拝者の多くは、近くに住まう西陣の住民であるが、その方たちは皆、自身や大切な誰かの心や体を休める場所を求めており、思いをこの地蔵尊に預けては、また街へ戻っている。それらの思いが長い年月蓄積した場所として石像寺を訪れると、時代に触れ、土地に触れることができたような気がしてしまい、信仰という概念が持つ力強さと深さの規模の大きさには毎度感嘆してしまう。
西陣の街をふっと思えば、そこらじゅうに住民の息遣いが広がっている。
点在する真っ赤な消防バケツや、屋根の上に乗っている鐘馗(しょうき)さん。町家のオモテに設置されている床几(しょうぎ)に、辻々の地蔵堂。織を織る音に、路地に入るほどに見ることができる住宅緑地に、厄除けの粽(ちまき)。西陣の街を歩くという感覚は、それら街の断片を拾い集めることに近いかもしれない。