なんでもない夜、ないしょのきらめき/<夜カフェ>レポート
いつもは18時までのカフェの営業を20時まで伸ばして「夜カフェ」を実施しました。初回は「語り合う」ことをテーマに据えて、立ち寄られた方と過ごしました。平日の夜ということもあり、ゆったりとした時間が流れていた冬の夜のひとと […]
西陣にまつわる
人々による
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2月8日。日中から降り続いた雪は積もり続け京都は雪景色となった。
20時13分、鴨川。トレッキングシューズの中で雪が転がっている。雪中から片足を抜いてはまた差し込んでを繰り返している。ザクザクと歩みを進める。友人と夕食の約束をした時間が迫る。鍵穴が凍ってしまった自転車はスーパーに置いてきてしまったし、川端通りの車通りは絶えタクシーも捕まらないので、鴨川を北上し地下鉄に乗ることにする。巻いたマフラーは凍ってしまって肩の上で立っている。友人から着信があり通話状態にする。約束の時間に遅れていることを謝り現状を伝える。返答はない。スピーカーにしても聞こえない。相手の音声が聞こえない。電波の問題かと思いこちらからもかけ直すがやはり聞こえない。どうやらこちらの声も届いていない。携帯電話をポケットにしまうと周囲の音が消えていることに気づく。街の音を吸い込んだ雪が足下に溜まっていって靴底にへばりつく。
雪は相変わらずしんしんと降る。そういえばそんな名前の深夜喫茶があったなあと思い出す。夜あかりが雪に照り返って昼間よりも明るく感じる。鴨川にあるものに等しく雪が積もって丸みを帯びている。蛇口、ベンチ、石碑、注意喚起の看板。河川環境を整備する角張った設置物たちの輪郭がゆるくなる。歩き続ける。人はいないがひとでないものたちとすれ違う。ゆきだるま、人型の雪跡、かまくら。それらを作った人たちはどこにいったのか。かまくらの中を覗いてみるとあたたかい。室内は思ったより広い間取りで作り手の力量がうかがえる。三人くらいは入れそうだ。部屋の奥にもまだ何かある。童心に帰る恥ずかしさも雪が隠してくれるから有り難い。かまくらからお暇して、すこし走ってみたりしてぜぇぜぇと空気を吐き出す。酸素が喉を濡らす。同じことを考えたのか対岸では数人が雪坂を転がっていく。悲鳴と歓びが混じった声を聞く。雪は大人の輪郭もまるくしてくれるらしい。風邪をひかないようにね。音が戻ってきたことに気づく。そろそろ電話をかけても繋がりそうなので再び川端通りへ戻る。電話するよりも先に蕎麦屋で待つ友人から気遣いのメッセージが入る。あたたかい蕎麦が待っている。行く、と伝える。
理解できぬ符号それらの偶然の一致。
奇跡を見逃すことが多くなったのかもしれない。荷物の配達をお願いすれば大抵は到着日に届くし、道案内のアプリケーションを使えば目的地への最短距離、最速時間でルートが明示される。こうやって計画的に目標を達成しスマートに人生を生きることができる。
現在、僕は西陣のゲストハウス/カフェで働いていて、多くの人が滞在していく。今、目の前でお茶しているご婦人方を見て、人と人とのおしゃべりはスマートさとは全く違った性質を持つと思う。
一つの話題を何度もループする。話していた内容が突然別の話題へと導かれ、もうその時点では何を話していたのかは分からなくなっていく。
予測不可能なやり取りの中で、時折顔をパッと明るくして驚きの声をあげる。あー、そうやったんかぁ。と頷く。それは話題同士の偶然の一致、これまで生きてきた何十年もの人生で不可解だった物事の糸が解かれる瞬間のように思えた。おしゃべりはいろんな時間を遡って、また未来へと渡って繰り広げられている。
毎回、昼下がりに大海へと漕ぎ出したご婦人方の船は夕方ごろに陸へとあがって解散する。(その解散の合図は毎回見逃しているためはっきりとはしないが、何か落ち着きどころがあるはずだ。)
僕は注文されたコーヒーをテーブルへ持っていく時に少しだけ会話の渦中へと誘い込まれる。そしてあっ!という瞬間に立ち会うことがある。それはどうでもいい時間、どこにでもあるような時間だが、その瞬間確かに僕とご婦人たちは大海の中で偶然出会っている。そしてそれはとても幸せなことだと思う。
夕暮れが近づく交差点で信号待ち。視線を感じた。
思ったより大きな(10等身ほどの)彼女はじっと南を眼差し、その眼下をさまざまな速度で人が行き交う。
古来より私たちは自然をさまざまなものに見立て、見出し、この世ならざるものの気配を感じ取ってきた。
雲から現れる大入道、月面に浮き上がる貴婦人、コンセントに住む小人の顔。:)
普段は背景と溶け合っている彼らと目があった時、私たちはあらゆる気配が息づく中で生活していることを気付かされる。
そしてほとんどの場合、出会った翌日には彼らの存在は薄れているはずだ。だから今、記憶から粛々とこぼれ落ちていく彼女を書き留めておきたい。
堀川今出川に座する長身の彼女に巨人の威風はなく、その目には憂いを宿していたように思う。いつか来る誰かを待っているのか、もう去ってしまったのか。あるいはゆっくりと変わりゆく街並みに思いを馳せていたのかもしれない。
いずれにせよ、私たちの時間の尺度ではそれを知り得ることは叶わない。
両者の間にある「分かり合えなさ」は、いつまでも青にならない横断歩道のようにこれからも隔たれたままだろうか。
束の間、留まっていた時間が進むのを感じる。信号が変わった。
ペダルを漕ぐ足が再び動き出す。
仕事を終えて帰宅する夕方、いつも出会う人がいる。
最初は目が合うだけだったが、今では立ち止まって頭を下げるようになった。
近所の人、なのかもしれないし
たまたま職場が西陣なのかもしれない。
互いに言葉は交わさない。
なのでその道で出会う、ということ以外僕たちは知りようがない。
たぶんこの先もお互いのことを知ることはないだろう。
それでも姿を見つければ目を合わし挨拶をする。
ぼーっと家に帰る道でも、挨拶を交わすと元気が出る。
知らない人にケアされているんだな、と思う。
一緒にいること、コミュニティというのはどういうことなのか、と考えさせられる。
もしかすると、これもささやかなコミュニティなんじゃないだろうか。
今日は雨が降っている、あの人はあの道を通るだろうか。
桜の小道にて
とようけのお豆腐屋さんで買い物をし七本松通りのなだらかな坂を自転車で帰っていた朝。
まだ朝も早かったのでぼーっとしながらペダルを漕いでいると、目の端に鮮やかな景色が映って思わずわっと声を出して自転車を停めました。
細い道に桜が咲いていて地面には落ちた花びらが線を作り道の奥へと続いていました。
道に入ると桜木の高さがだんだんと低くなりアーチを形作っていて雪のようにはらはらと花びらが散っていきます。
身体をかすめていく花びらはゆっくりと落ちていき、体感する時間が遅くなっていくようでした。
そのあまりにも突然居合わせてしまった小道は僕がそれまでいた七本松通りから遠く離れた場所に誘い込んでいるに思えて、あぁ美しいものは畏ろしいんだなと感じそっと引き返しました。
もといた七本松通りに戻るとすっかり目が覚めていて、通りにいる車や人を見ながら帰りました。
春はあらゆる命が芽吹き波打つことで力強く世界がうねる季節ではないでしょうか。
あの朝僕はそんな「春の渦」のようなものに踏み入れてしまったのだと思います。