「親子」とひと口にいってもいろいろな形態がある。僕と父母、サーモンといくら、カエルとおたまじゃくし、鶏と卵、ロベルト・ロッセリーニ&イングリッド・バーグマン夫婦とイザベラ・ロッセリーニ…… 。例を挙げていくとキリがないほど、地球は親子関係であふれている。その中でも、「親子丼」というと、一般的には鶏肉と卵が使われた種類の「親子丼」を思い浮かべる人が多いのではないだろうか。

 

僕は何を隠そう、「親子丼」と聞くと鶏肉と卵が使われた「親子丼」を思い浮かべる類の人間の1人であり、そして親子丼が大好きなのだ。米・卵・肉の組み合わせはTHE ALFEEの3人もきっとびっくりするほど相性の良い組み合わせであり、どんぶりに入ることで無性に掻き込みたくなる形をしているのもなかなか狡猾だ。僕にとって、親子丼はどれだけ努力しようとも嫌いになることができない食べ物のひとつなのである。

 

お昼ご飯に親子丼を食べたくなれば、西陣にある「鳥岩楼」へ行けばいい。いかにも老舗だと言わんばかりの厳かな佇まいをした建物には「鳥岩楼」という看板が掲げられ、僕はどうしても「トリガンロウ」と読みたくなってしまうけれど、実際は「トリイワロウ」と読むらしい。

 

 

店に入るとわかるのだけれど、外観の厳かさとちょうど同じだけ厳かな空気が漂っており(本当にピッタピタに厳かであるから驚いてしまう)、来店人数を告げると「離れの 2階」へと案内される。和風の庭園を横目に見ながら和風の廊下を出来る限り厳かに突き進み、離れの階段を出来るだけ厳かに登れば、畳の上にいくつかの低いテーブルが並べられ、その低いテーブルの上でお客は親子丼を食べている。僕は鳥岩楼を訪れて親子丼以外のものを食べている人を見たことがない。なぜなら、お昼の鳥岩楼では親子丼しか出されていないからだ。席についてしばらく待っていると、問答無用で親子丼が運ばれてくる。お客はもちろん親子丼を食べるために鳥岩楼へやってくる。これほどまでに需要と供給が良いバランスを保っている例はなかなかない。親子丼を食べたい人が、親子丼を食べさせたいお店に集まるというのは、純粋で正当な利害関係の一致であるように思う。

 

 

さて、目的の親子丼は運ばれてくる。胡座の姿勢で座る僕の前に置かれた低めのテーブルの上に、僕の親子丼が入ったと思われる丼ともお椀ともとれる器が並べられる。蓋を開ける。湯気が出る。ちゃんと親子丼は入っている。たっぷりと卵が使われた親子丼のあんの上には、うずらの卵と思われる小ぶりな卵の黄身が乗っている。そして言うまでもなく美味しい。

 

親子丼を食べると安心するのは僕だけではないはずだ。母親がよく親子丼を作ってくれていたからだろうか。卵とお出汁が絡まって優しい味を醸し出しているからだろうか。鶏肉と卵の親子の絆によって不思議な力が生み出されているからだろうか。理由はよくわからないけれど、親子丼は、食べる者をどこか安心させる。僕は完全に安心しきってしまったから、親子丼を口へと運ぶ手を動かすことが我慢ならず、気がついたときにはお椀のような丼は空っぽになっていた。もう1度同じものが運ばれてきて、もう1度同じものを食べることができたらどんなに幸せだろうかと思ったけれど、それはまた鳥岩楼を訪れたらいいだけの話だから、きっと近いうちに鳥岩楼の親子丼を味わえる日が来ることだろう。