文化資本と西陣 前編

 

こんにちは!気づけばもう3月となり、暖かい日も増えてきました。北野天満宮なんかを歩いておりますと、長い間丸裸だった梅の細枝に明るい花弁が見受けられて、確かな春の気配が街の中に満ち始めていることを感じます。そして粘膜を強襲する花粉。
同時に、私の学生生活も残り僅かとなりました。私は全国転勤型の職業に従事するので、次の4月からは(おそらく)新天地での生活が始まります。慣れ親しんだ京都、そして西陣を離れるのは筆舌に尽くし難い寂しさがありますが、かえって距離を置くことで見えてくる京都や西陣の魅力もあると信じ、居心地の良い場所を抜け出して頑張りたいと思います。
それでは、僕の、そして皆さんの心を捉えて離さない西陣について、前回を踏まえつつ更に深掘りしていきましょう!

 

○西陣に点在する個人店の謎

 

前回の内容をおさらいします。西陣織という中心主体が強力に牽引する形で固有の歴史を紡ぎあげてきた西陣地域でしたが、バブル崩壊を決定打とする脱工業化の中で西陣機業が衰退、このような流れを経た現在の西陣は「住宅地」と「商業空間」とのミックススペースと化している/化しつつあると指摘しました。もちろん西陣機業の存在感は現在においても根強く、西陣というものを考える上で最重要なのですが、本連載では新たな西陣の担い手に焦点を当てていきたいと思いますので、やむを得ず割愛させていただきます。

 

ここで注目したいのが、西陣の現在地としての「商業空間」側、つまり昨今の西陣にて増加傾向にある個人店です。西陣の地で新たに店を構える彼/彼女らの過半数は西陣の地と無関係であり、したがって「西陣を自称する義理はない」。しかし、前回でも述べたように、その多くは西陣で店を開いていると自称していたり(これはSNSや会話の中で判断できます)、西陣でやっていることを強く自認していたりする。この、<「義理はない」―「西陣自称行動」>間の断層を繋ぎ合わせるものとは何か。私の関心はここから出発します。

 

「義理はない」の代表例を確認しましょう。西陣内に点在する様々な店を見ていくと、西陣の中にある店が全て「西陣」と自称しているわけではないことが容易にわかります。それは個人店でもそうですし、チェーン店だとより露骨です。千本中立売にあるすき家やマクドナルドは「千本中立売」という店名ですし、コンビニエンスストアに関しては大宮蘆山寺のファミリーマートが「西陣北」である以外、1店舗も「西陣店」が存在しません※1。チェーン店を通すことによって、事業者の価値観(往々にして経済合理的な価値観)によっては西陣が消滅し得ること、つまり経済合理性と西陣の関係性が浮かび上がります。

 

一方で、私は調査を通じ、「西陣」と自称している個人店は、何らかのこだわりや洗練性が感じられる、言うなれば「センスの良い」店が多いということに気が付きました。ここでいうこだわりや洗練性とは、巷で流行っているような何かを積極的に取り入れているようなものではなく、もっと普遍的で、流行り廃りに影響されず、事業に自らの強固な芯があり、その意味で各々が真摯な…。そのような、抽象的な感覚です。

 

例えば「西陣自称行動」をとる事業者は、野菜であればオーガニックや減農薬、肉であれば放牧といった選択をしている傾向がありました。業務用スーパーで安く仕入れて調理する、というのではなく味を基準点として選択しているということです。また、エシカル性やフェアトレードといった要素にもアンテナを張っている傾向があり、その点においてもこだわりを感受できます。

 

また、店の外装や内装にもこだわりをもつ傾向が見受けられます。外装・内装は居抜きというより、職人に頼んだり、事業者自ら工事に着手したりする。椅子やテーブルといった什器に関しても、業務用のものから上質な既製品といった様々な選択があるなかで、オーダーメイドであったり、日本やヨーロッパの古家具であったり、手作りであったり、そういったものを置いている傾向がある。このように、「西陣自称行動」を行う事業者は事業の全体に真摯なこだわりを持っていることを傾向として掴むことができます。

 

上記の文脈における「真摯」とは、調理の素材は、質を落とせば安く済ませられるし、外装や内装も、似たような雰囲気を形成できる安価な既製品・サービスがある中で、それらを選ばずに質を追求するような姿勢のことです。この意味で、「自らの志向性に妥協がない」というのもひとつの特徴と言えるでしょう。西陣における個人店の「センスの良さ」は、妥協なく自らの事業を行う、ある意味「職人気質」な態度から発現している。そして、繰り返しになりますが、そういったお店は「西陣自称行動」をとっている傾向がある。

 

この傾向は町家・非町家を問わず観察されます。西陣地域において商業空間化を推進してきたのは「町家ブーム」であり、1990年代後半以降増加した町家カフェ等がその中心主体でしたが、そこから20年以上の時間が流れ過ぎた現在において、西陣には町家以外のお店も多数散見されます。その中でも、上述した特徴を持っているとき、彼/彼女らが「西陣」と自称している傾向がある。捉えるべき争点は町家といった建造面でなく、やはり事業的な態度にありそうです。それではこの点について、さらに解像度を上げていきましょう。

 

○ピエール・ブルデュー

 

今回参照するのは、フランスの社会学者であるピエール・ブルデューが著した『ディスタンクシオン』です。彼の理論を照らし合わせることで、西陣の事例、つまり「西陣織が衰退した西陣において新たに事業を行う新規参入者が<西陣>を自称する動機」について、ひとつの仮説を立てることができます。また、今回はわかりやすく説明をしますが、ブルデューの理論は複雑であり、わかりやすく説明するということは誤りを含むということになりますので、もしこちらを読んで興味が湧いたという方がいらっしゃれば末尾の参考文献を読んでより深く学んでみてください!

 

これがブルデューです(1930-2002)。渋かっこいいですね。

 

ブルデューを一言で言い表すなら、「趣味と社会(社会階級)を接続した人」になります。趣味とは私達それぞれ個人が自由に選んでいるものだというのが一般的な理解だと思いますが、そのような次元にとどまるものではないのだとブルデューは言うのです。それは各々の所属する社会階級と不可分であり、その影響を強く受けながら形成され、かつ社会階級間で趣味を介した「象徴闘争」までもが繰り広げられているのだと彼は主張します。この聞きなれない「象徴闘争」という概念が、現在の西陣を問う上で重要な鍵となっています。順を追って確認していきましょう。

 

○「趣味」について

 

最初に「趣味」について考えていきます。ここで扱う「趣味」とは「hobby」ではなく「taste」の方で、食や音楽や余暇の過ごし方など様々な状況下における「好み」のことです。

 

あらゆる趣味には「正統的」と「非正統的」といった二極が存在します。音楽で考えてみましょう。音楽における「正統的」な趣味とは、クラシック音楽が挙げられます。一方で、JPOPなどは大衆的で「非正統的」なものだと位置づけることができます。また、それらの中間にはジャズなどがありますでしょうか。このように、「音楽」等のあらゆるカテゴリにおいて、そこには「正統」と「非正統」の二極が否応なく生じます。

 

ここで私はJPOPを聴く人が下等で、クラシックこそが正統な音楽で高尚だと言いたいわけでは決してありません。重要なのは、普段はさして意識することがなくとも、あらゆるカテゴリには「客観的」に設定されている価値の階層性があるよね、ということです。

 

私達はそのような階層性を無意識のうちに把握しつつも、その階層性における上位を狙った行動をとるとは限りません。私は「クラシックの方がJPOPなどと比べて何となく高尚な音楽だ」という自覚が何となくありますが、だからといってバッハやマーラーを愛聴するわけでは決してありませんし、ほとんどの方が私と同じではないでしょうか。

 

また、「趣味」について考える上で重要なのが、「あらゆる好みは嫌悪である」というブルデューの指摘です。「嫌悪」というのは半ば強すぎる表現ですが、つまり「趣味の選択」とは「選択しなかった趣味への否定的態度」を内包しているということ。例えば私がJPOPを聴くとき、私は(無意識のうちに)「クラシックは堅苦しい」とか、「KPOPはいけ好かない」とか、単純に「良さがわからない」とかという、否定的判断を(他にありえた選択に対して)(往々にして無意識のうちに)下しているというわけです。

 

何となく趣味が合うという人が周りにいるときでも、好きな歌手や食べ物や映画が完全に合致することは非常に稀であると思いますが、むしろ「嫌いな趣味」について聞くと驚くほどに一致する場合があるのではないかと思います。これが「あらゆる好みは嫌悪である」というブルデューの指摘に込められた内容です。

 

○「趣味」とは「卓越化」を巡る闘争である

 

ブルデューは趣味を巡る「好みと嫌悪」の構図を「各々の卓越化を巡る闘争」として切り取ります。「卓越化」とはまた耳慣れない言葉ですが、「他者より自らの方が優れているという感覚」として理解して下さい。私が(クラシックやKPOPを聴かずに)JPOPを聴くとき、私は(クラシックやKPOPを聴かずにJPOPを聴くという)私の立場を確保して肯定している、ということです。そしてこの「私の立場」とは、個人に留まるものでなく「私」の所属する社会階級全体の「卓越性」という含意がある。私達の趣味とは私達の所属する社会階級における代表性がある、というのがブルデューの主張です。

 

○ブルデュー社会学における「社会階級」――「経済資本」×「文化資本」

 

社会階級ときくと、経済的な階層性を想像するのが一般的かと思います。「経済資本」によって富める者が富み、貧するものは貧する縦の構造。ブルデューは、この経済的な社会階級に「文化資本」という変数を加えます。ブルデュー社会学における概念としての「文化資本」は文化芸術への造詣に留まらず、テーブルマナーや余暇の過ごし方といったものまでを包括する非常に多義的なものです。ブルデューは「経済資本」と「文化資本」によって展開される社会階級観を適用して分析を行います。

 

 

上の図はブルデュー社会学における社会空間を図式化したものであり、横軸が文化資本と経済資本の比率、縦軸が資本総量で構成されています。この図は経済資本量と関わりをもつという点で職業とも対応関係を持ち、自身が学生などの金銭的な自立をしていない時期は親の収入(≒職業)、働き出してからは従事する職業と収入に応じて位置が定まります。

 

一方で、文化資本量に関しては、子どもの時期は親から教育や学校教育、ある程度自立して以降は主体的に獲得した資本量でグラデーションが生じます。また、図表に散りばめられた具体的な職業はあくまで全体的な傾向であり、いくらでも例外はありますし、かつどこに属していれば「偉い」といった優劣を浮き彫りにしたいわけではないのでその点にもご留意ください。この図を通して確認してほしいのは、各々の「社会空間における位置=職業や肩書」に応じて、あらゆる状況における振る舞い、つまり「卓越化の感覚」が異なる、という点です。

 

余暇に映画を観ることを例にとって考えてみましょう。資本総量は大きく、比率としては文化資本が潤沢な大学教授の場合、休日に映画を観るとしても、三谷幸喜や宮藤官九郎といった現代日本における喜劇的な作品ではなく、ゴダールや黒澤明といった作品を好む傾向があるかもしれません。一方で、資本総量は大きいものの経済資本の比率の方が高い工業経営者の場合、観る映画の基準はその時流行っているもの―今だと『鬼滅の刃』とか『すずめの戸締まり』とかでしょうか―を選ぶ傾向があるかもしれません。また、専門職にもかかわらず平均年収が低い図書館司書は、資本総量は小さく文化資本の割合が高くなり、よって図の左下あたりに位置をとることになりますが、彼/彼女らは映画館で映画を観ることが経済的な負担となるため、Netflixやアマゾンプライムといったサブスクで観ることのできる映画を選びがちかもしれません。その上で、文化資本量の高い彼/彼女らは大学教授と似通ったものを選ぶかもしれません。資本総量全体が乏しい日雇い労働者に至っては、経済的な限界から映画を観ることが叶わないかもしれません。これらは全て「しれません」という範疇でしか語れないものですが、読者の皆さんにも「こういう人はこういうのが好きそうだな」的に何となく想像ができるのではないでしょうか。上述のような映画に対する各々の選択は、「自分の選択が正しいのだ」という階級的な戦略、先述した「卓越化を巡る闘争」として解釈するのがブルデューです。文化資本量が高い、つまり図の左側に属する者にとって映画とは心を滋養するものであり、経済資本量が高い、つまり図の右側に属する者にとって映画とはコミュニケーションを円滑にするツールでありうる(流行りの映画を観ることでコミュニケーションの土台となりやすい)、といったように、映画をどのように自身の生活に活用していくかといった向き合い方自体が自らの社会空間における位置の保守、そして自らを立ち回りやすくする階級的な戦略なのだというわけです。これは映画に留まらず、食事でも余暇の過ごし方でも生活の随所において同様です。こうしたあらゆる状況下における自らの行動を確定させる原理とは、当人がどのような社会階級―社会空間における位置―で生まれ育ち、その階級における「卓越化の感覚」を身に着けたかによって形成されていきます。これをブルデューは「ハビトゥス」と呼びます。

 

○「ハビトゥス」

 

「ハビトゥス」は「身体化された社会構造」のような説明が為されることがあります。社会構造(社会階級)とは実態のない抽象的な概念ですが、それは「ハビトゥス」という形で各々の意識の中に浸み込んでいきます。「ハビトゥス」とはあらゆる状況下において自らの振る舞いを方向づける原理のことです。お腹が空いた時、旅行先で訪問する場所、余暇の過ごし方、あらゆる状況においてこの「ハビトゥス」は作動し、諸個人の行動に影響を及ぼします。

 

 

「ハビトゥス」とはどのように形成されるか。つまり「社会構造」とはどのように「身体化」されうるかということですが、それは自らが生まれ育った環境によって素地が形成され、そしてその後に辿るライフコースによって絶えず再編成しながら「身体化」されていきます。つまり、変数は生まれ育った社会階級(経済資本×文化資本)、そして時間の3点ということになります。例えば、小学校で仲良くなった友人の影響でクラシックを聴くようになったとか、大学に入って知り合った友人の影響でジャズが好きになったとか、このような経験は異なる「ハビトゥス」に触れて自らの「ハビトゥス」が変容としたと解釈することができます。

 

「ハビトゥス」にはふたつの側面があります。ひとつが「自らに優位に働く行動を選択して実行する」という側面、いまひとつが「自らの優位性に寄与しない(=自分にとって悪趣味な)行動を判断して分類する」という側面です。「趣味」に関する項で触れた「あらゆる好みは嫌悪である」というのは、これらの「ハビトゥス」の性質とも合致します(「ハビトゥス」によって「趣味」が決まるというのがブルデューの説明なので当たり前ですが)。

 

具体例を見てみましょう。私は本連載の初回2回に渡って西陣とは関係のない自分語りを展開しましたが、あれらは全て私の「ハビトゥス」形成と変容の過程として理解することができます。私は三重県北部の片田舎で保守的な中産階級の息子として生まれました。小さな頃から元保育士の母親に様々な絵本を読み聞かせられ、旅行では京都に行きつつも清水寺や金閣寺ではなく蚤の市なんかに連れて行かれ、わけも分からず古いものを見まくっていました。また、お弁当を含めた食べるものは全て手作りでしたし、読みたい本は何でも買ってくれていました。私の「ハビトゥス」における文化資本量の源泉はこのような母親の実践にあるように感じていますし、そうでもなければレンガ造のキャンパスにそれほど憧れることもなく、西陣研究へ取り組むこともなかったことだろうと思います。そして私は陸上競技と出会い、「競技者」としての「ハビトゥス」を身体化していきます。ここで前述した母親の教育を素地として「真面目性」が形成され、勉強でも競技でもちゃんとすることに価値を感じるようになっていきました。高校競技生活をうまく行かずに終えたのち、学校推薦の権利を放棄して受験を選択、自力での進学を目指します。これは18歳当時の私が身体化している「ハビトゥス」が、受験の方に価値を認めるようなものであったからこのような挙動を取ったのだということになります。低偏差値校での受験は厳しいものがあり、受験経験を通じて私は高偏差値校と対比した時の自らの弱者性を「ハビトゥス」として身体化していきます。こうして何とか合格した同志社大学に入学する頃には、私は真面目を根底とした捻くれた学生としての「ハビトゥス」を身体化していたと分析することができます。

 

「太田大晴としてのハビトゥス」は現在の私にも絶え間なく影響を与えてきます。「太田大晴としてのハビトゥス」は古家具を好み、今は蚤の市で買った文机を使っています。また、私は読書が趣味ですが、好きな作家は「小川洋子」や「津島佑子」といった女流作家、古い人だと「夏目漱石」などで、現代小説はあまり読みません。音楽の素養はからきしありませんが、よく聴くのは「東京事変」や「宇多田ヒカル」で、巷を席巻するヒットチャートにはとても疎いです。そして映画もあまり観ませんが、観るときは「出町座」や「アップリンク京都」といったミニシアターで、純文学に近い内容のものを選びます。列挙するととても痛い大学生で絶望しますが、どれもこれも「太田大晴としてのハビトゥス」が、「そうすることの方が他の選択よりも自身の卓越性に寄与する」のだとして選択させているのだ、というわけです。

 

そんな私の雑然とした自室がこちらです。

ここ2年の良く聴いたトップ5です。自分の「ハビトゥス」を捉える作業は就職活動における自己分析に似ていますが、自らの経験を市場に照らし合わせるのではなく純粋に扱う点で異なります。どのような社会階級に属する者に育てられ、その後どのようなライフコースを辿って現在はどの社会階級に属しているのか、皆さんも考えてみてください!

 

要は偏見に近いものかもしれません。北欧家具を好んで朝食から丁寧に作る貴婦人が「メタリカ」を愛好するということはそうそうないと思われますが、「カーペンターズ」とかなら好きそうですよね。分かる人には私自身の一連の行動にも統一性を感じると思います。ブルデューの面白いところは、このような統一性の偏見を偏見として退けることなく、「ハビトゥス」概念を導入することによって「階級戦略」として扱う点にあります。

 

○「ハビトゥス」+「界」=「行動」

 

上記の「ハビトゥス」を身体化した私は自身の基準における「卓越性」を追求しながら行動をとっているのだと先述しましたが、この点における「卓越性」の基準を設定するのが「界」となります。「界」としては「学生界」や「社会人界」、「政治界」「経済界」「科学界」などといった大小様々な「界」が考えられ、各々が固有の「ハビトゥス」を身体化した私達はこれらの「界」における自らの「卓越性」を確保する行動をとるということになります。例えば前節で書き連ねた私のあらゆる挙動は、「大学生界」における私にとっての卓越性を獲得するための行動であると分析できます。私は「大学生界」におけるあらゆる支配的な価値観から逆張りすることで、自らの「大学生界」における立場を肯定的に確保(=「卓越化」)させているというわけです。

 

こういうわけで、ブルデューは諸個人のとるあらゆる行動を以下のように立式しています。

「ハビトゥス」+「界」=「行動」

 

ここまで確認することで、ようやく「<義理はない>―<西陣自称行動>」について検討することができます。<西陣自称行動>をとる事業者は、「千本今出川」等よりも「西陣」と自称することに価値を感じるような「ハビトゥス」を身体化しているということです。そして検討するべきは、<西陣自称行動>に価値を生じさせるような「界」の実体です。

 

それでは、次回後編は議論の焦点を西陣へと戻します。

 


※1 「西陣北」店以外には「西陣郵便局」店が存在しますが、これは「西陣」というより「西陣郵便局」という固有名詞に依拠した命名だと推察できるので除外しています。⬆︎

 

(ブルデュー参考文献)
Bourdieu, Pierre, 1979, La distinction: Critique sociale du jugement, Les Editions de Minuit(石井洋次郎訳,1990,『ディスタンクシオン――社会的判断力批判Ⅰ・Ⅱ』藤原書店)
⇒原著。鈍器本かつ超絶難しいので、以下の解説書から入るのがおすすめです。

(易)岸政彦,2020,『100分de名 ディスタンクシオン』,NHK出版.
(やや易)石井洋二郎,2020,『ブルデュー『ディスタンクシオン』講義』藤原書店.
(やや難)加藤勝久,2015,『ブルデュー 闘う知識人』講談社選書メチエ.

 

また、YouTubeでもいくつか動画が上がっており、以下がおすすめです。

 

帰ってきたロシュフコー『ブルデューのディスタンクシオンを解説【社会学】』
⇒超わかりやすいです。上記の石井(2020)を解説した構成となっています。

 

以下はもう少し踏み込んだ内容になっていますので、3つ全て視聴すれば概観は把握できると思います。

 

ふひと:人文系YouTuber『【ブルデューの思想】文化資本とは何か【ディスタンクシオン】』
アーカイブ社会学講義『社会学基礎講義5』