西陣の現在地

 

あけましておめでとうございます!
新たな年となりましたが、皆さまはいかがお過ごしでしょうか?
1月は何かを始める絶好の機会ということで、私は辞書を読み始めました。
寝る前の時間を使って少しずつ読んでいるのですが、約一か月経った今でもギリギリ継続できています。私が読んでいるのは中型辞書なので全日本語を網羅的に、とまではいかないですが、それでもこれだけ自分の知らない単語や意味があるのだと思うと胸が熱くなります。日本語は奥行きがあって面白いですね。

 

「いたしかゆし」まで読みました。

 

距離の近さが返って人を盲目にするというのは日本語も西陣も同じです。実は奥深い西陣について、今一度確認していきましょう!

 

○西陣の起こり

 

京都市考古資料館前に屹立する西陣碑

 

この記事を読んで下さっている皆様は西陣地域に関係のある方が多いと推察しますが、西陣と聞いてどのようなものを思い浮かべますでしょうか?「応仁の乱における西陣跡」や「西陣機業の集積地」といったイメージが代表的なものとして挙げられるかと思いますが、明確に思い描くことができる人は少ないと思います。今一度「西陣」という場の持つ長い歴史を掘り返してみましょう。

 

<西陣>の起源は、厳密には1467年の応仁の乱から更に過去へとさかのぼります。5・6世紀に大陸からの渡来人が現在の太秦(うずまさ)辺りに住み着き、その地の住民に養蚕や絹織物の技術を伝えました。非常に高等な技術は朝廷にも認められ、平安遷都をきっかけに織部司として官営化、公認の形で高級織物の生産を担うようになります。その際、彼らは太秦から上長者町(現在の堀川新文化ビルヂング辺り)へ移り住み、その地で「綾部町」という職人集住地域を形成したと言います。その後、律令政治の崩壊とともに職人らは朝廷から独立し、綾部町の集住地域はそのままに高級織物を生産し続けますが、応仁の乱勃発をきっかけに解体を余儀なくされます。11年に渡る苛烈な戦争が終わると、戦火を逃れていた職人らは再度京都に集結、戦乱時に西軍の本陣であった大宮今出川付近などで織物業を再開するようになります。そして、その地で生産される織物が西陣跡と結び付けられる形で「西陣織」と称されるようになり、その生産拠点としての「西陣」という通称が誕生します。これが地名としての<西陣>の由来です。

 

○移り行く西陣

 

その後は近現代に至るまで、トップクラスに上質な高級織物とその生産地として「西陣」は和装業界を牽引し続けていました。しかし、1960年代頃から人口の都市流入や消費者の着物離れといった生活様式の変化とともに和装業界全体として徐々に縮小していき、さらに1992年のバブル崩壊が致命傷となって西陣機業は大きく衰退していきました。西陣に長く住まれている方に昔の話を伺うと、かつてこの地域に西陣機業が深く根付いていたことを教えてくださります。昔は通りに溢れていたという機織りのリズムや染の匂いは、今や探し出してようやく見つけることのできる希少なものとなりました。

 

 

それでは西陣機業の衰退後、西陣地域はどのような社会変動を迎えたのでしょうか。1990年代以降、つまり脱工業化※1の煽りを受けた後の西陣地域は、西陣機業関連の空き地を巡って二つの未来を辿ることになります。「住宅地化」と「町家ブーム」です。

 

〇西陣と「住宅地化」

 

「住宅地化」とは昨今の西陣における共同住宅建設の流れのことを指します。国勢調査の「住宅の建て方別世帯構成」を確認すると、一戸建て及び長屋建ての割合が1990年の53.2%から2015年には31.9%と減少、一方で共同住宅の割合は45.6%から68.0%にまで増加するなど、西陣地区における産業構造の転換(=西陣機業の衰退)が街並みにも如実に反映されていることがわかります。西陣地域は都心に近接していながらも他エリアと比較して相対的に地価が安いという特徴から共同住宅需要が高まり、1972年に竣工された「メガロコープ西陣」を皮切りに工場跡地をマンションとして活用する事例が増えていきました。「メガロコープ西陣」はかなり先駆的ですが、1992年のバブル崩壊とともにこの流れは一挙に加速し、それに伴って人口も徐々に増加していきます。1990年代以降、西陣地区※2における人口はコロナショックを反映した2015年→2020年を除いて増加し続けており、また住民の層としてサービス職や専門技術職といったいわゆる「ホワイトカラー」層の増加が見られます。西陣機業に従事する方は生産労務職に合算されるわけですから、西陣地区の住民の質的変化がここから読み取ることができます。

 

 

ここで重要なのは、「西陣地区で共同住宅の建設が行われる契機となったのは、地域の中心産業である西陣織の生産空間の閉鎖とその跡地の存在」、そして「歴史的な地区特有の街並み景観が存在し、地区イメージが良好である」からこそ需要が高まっているという藤塚(1992)*の指摘です。「西陣織の生産空間」、つまり工場跡地は、京都市内における需要と照合されて共同住宅や一軒家への建て替えが進められていきました。そしてその需要には「地区イメージの良好」さも一定の寄与があるといいます。共同住宅が林立している昨今の現状は不本意な部分もありますが、ややもすれば空き地だらけのゴーストタウンと化していた可能性を考慮すると、西陣という土地の持つ底力を再確認できますね。

 

〇西陣と「町家ブーム」

 

一方で、同時期の西陣では「住宅地化」と並行して「町家ブーム」という動きも生じていました。これは1990年代前半に西陣地域内のあるお寺の住職が始めた取り組みをきっかけに引き起こされたブームで、「町家カフェ」「町家ゲストハウス」に及ぶ源流としての側面を持っています。1990年代当時、町家というものは現在ほど高い価値を持ってはおりませんでした。それどころか、建物としての脆弱性や老朽化といった部分から、スクラップ・アンド・ビルドによる近代住宅への建て替えが進んでいたといいます。町家の減少を危惧した住職は町家に住みたい者と空き町家を抱える大家とを繋げる活動を開始し、「綺麗に使ってくれたら中をどうしてもいい」という大家一般の意向から若いアーティストを中心に受け入れられていきました。町家に住みながら陶芸などの創作活動を行う彼/彼女らの姿はメディアによって拡散され、町家の入居活動が広範に知れ渡るとともに町家の価値に火が付き、一時期は電話が鳴りやまぬほどに入居希望の連絡が来ていたといいます。こうした町家を巡る活発な動きは投資家や外部資本を呼び込む結果となり、2000年代前半頃からはそれらの外部アクターを中心に商業的な活用が増加していきます。結果として町家の市場価値の大幅な高騰、そして町家本来の用途である生産・居住の空間から消費・体験の空間へと性格を変容させていきました。西陣地域における町家は主に西陣織の生産空間として活用されてきたものですが、その「生産の空間」としての側面が「消費の空間」へと移行することによって、「消費の目的地」としての西陣が確立されていったわけです。金(2018)*は「1990年代以降、西陣地区の町家の多くは、取り壊され住宅地化の波に飲み込まれるか、あるいは商業的用途に転用されるかという二者選択を強いられてきた」としつつ、「後者の道を用意してきたのが、(…)「町家ブーム」である」と指摘していますが、(恐れ多くも)昨今の西陣を正確に示し出す鋭い一文だと思います。町家のみならず、西陣地域内にはぽつぽつと様々なお店が点在しています。今の西陣地域を知る人からすれば、乱立する住宅と点在するお店といった西陣像に、ある程度納得してもらえるのではないでしょうか。

 

ここまでをまとめると、西陣織を中心として積み上げられてきた「西陣」の歴史は、1990年代以降に新たな展開を迎えます。それまでは「西陣」といえば「西陣織」、といった様相がわかりやすく地域に溢れていたのが脱工業化の流れの中で解体されるともに、その工場跡(=町家)の活用を巡って住宅地化と商業空間化が同時に進んでいったということです。そして現在の西陣はその流れの延長線上に存在していると言えるでしょう。

 

 

 

〇「西陣」を自称する不合理

 

ところで、「西陣」とは公式な地名として存在していない通称だということはご存じでしょうか?西陣の成立については冒頭にて確認しましたが、「西軍の本陣跡」からの「西陣織の生産地」として「西陣」というエリアは確立されるも、その後も「〇〇区」や「〇〇町」というような地名としては採用されていません※3。「西陣」とは、完全に非公式な状態で存在している不安定な名称なのです。この点にて、「祇園」や「東山」、「四条」といった他エリアとの根本的な違いがあります。

 

前に確認したように、「西陣」とは「西陣織の生産地」として人口に膾炙するようになった通称であり、西陣織が衰退して地域から見えづらくなった現在、特に西陣織と関係なく生活する者にとっては「西陣」を使用する義理はないように思われます。「西陣」を使用するかどうかは当人に選択の余地が与えられているといっても良いでしょう。しかし、現状、「西陣」というエリア名が完全に消失してしまうような兆しは見られません。むしろ、これまで「西陣」というエリアを引っ張ってきた西陣機業が衰退した現在においても、「西陣」はエリアを示す言葉として強度を保ち続けています。このことは、人が思っていること以上にすごいことだと考えています。なぜなら、誰もが経済合理性に基づいて考えるようであれば、「西陣」などは用いることなく「千本今出川」や「堀川中立売」といった、わかりやすい名称を採用するはずですから。

 

ここで私が着目したのは、昨今西陣にて増加傾向にあるレストランやカフェをはじめとする個人店です。西陣地区に新規流入して店を開く彼/彼女らにとって、自らの店の立地として「西陣」を自称する義理はありませんし、何なら通りの名前を活用した方が限りなく正確に伝えることができるまであります。しかし、かなり多くの個人店が「西陣」を自称していたり、「西陣」への帰属意識を感じるような形で事業を営んだりしているというのは、読んでくださっている方の中にも共感される方が多いのではないでしょうか。これは非常に奇妙なことで、合理性といった観点や「西陣」=「西陣織」といったステレオタイプ的イメージからは説明がつきません。

 

この不思議、「不合理」を生じさせている構造とは何か。
次回はこの点について「趣味」という切り口から社会学的に検討してみたいと思います。
今回も大長文失礼いたしました。お読みいただきありがとうございました!

 

※1「脱工業化」とは、工業を中心とした社会から情報やサービスといった第三次産業の占める割合が高まった社会へと移行することを指します。⬆︎

※2先行研究に倣い、桃薗、小川、聚楽、正親、嘉楽、乾流、西陣の7地区を合わせた範囲を「西陣」としています。⬆︎

※3例外として、旧学区と国勢統計区としての「西陣」は公式に設定されています。⬆︎

 

[参考文献]
藤塚吉浩,1992,「京都市西陣地区におけるジェントリフィケーションの兆候」『人文地理』 人文地理学会,44(4): 495-506.⬆︎

金善美,2018,「「町家ブーム」から見た大都市インナーエリアの地域社会変動――京都・西陣地区の事例から」『日本都市社会学会年報』,36: 164-179.⬆︎