文化資本と西陣 後編

 

第4回、後半です。今回はとんでもなく長いですが、もう少しお付き合いくださいませ!

 

本文に先駆けて、前半に長々と確認した内容を軽くおさらいします。前半でも書きましたが、ブルデューは本来なら自分が解説するなんて荷が重すぎる社会学者なので、より深く知りたい方は末尾の参考文献を読んでみて下さい!

 

趣味:
「hobby」ではなく「好み(taste)」の意味で扱う。「君の服装、趣味がいいね!」とかいう時における意味での「趣味」。

 

社会階級:
ブルデューは社会階級を経済資本量による縦の構造でなく、そこに文化資本という変数を加え、双方の資本量の多寡と比率による以下のようなマトリクス形式で捉えている。イメージとしては、上・中・下の縦3分割ではなく、上部の左・真ん中・右、中央部の左・真ん中・右、下部の左・真ん中・右といった9分割。

 

経済資本:
社会階級を規定する変数のひとつ。親の収入や自らの収入で決まる。

 

文化資本:
社会階級を規定する変数のひとつ。文化芸術の素養やテーブルマナー、言葉遣い、余暇の過ごし方など、これらを文化的な資本として捉えた概念。例えば同じ年収帯の家族がいて、同じ予算で夕食へ行くとして、A家族が焼肉食べ放題を選び、B家族がイタリアンレストランを選んだとする。このような判断の根底で影響を与えるのが文化資本(「食事というものをどのように捉えているか、お腹いっぱいになるのが目的か、良質なものを適量食べて感動することが目的か」)という感じ。

 

卓越化:
他者から自分を区別してきわだたせること。あらゆる趣味の選択は各々が所属する社会階級の優位性(その他の社会階級に対する優位性)を示す企てであり、その意味で趣味とは階級的戦略なのだというブルデューの主張の骨子を為す。上記の夕食の事例の場合、双方は相手に対して「相手よりも自分は良い選択をしている」という含みをもつ、ということ。

 

象徴闘争:
趣味を通じて展開される各々の卓越化を巡る図式を闘争として捉えるキーワード。上記の夕食の事例の場合、年収帯が同一ということで両者は社会階級においては同じ中央帯に属するが、食事の選択(片岡栄美ほか(2020)に則り、A家族を中央帯右側、B家族を左側とする)を通じて自らの「卓越性」を(意識的/無意識的関係なく)示しつけているという状況こそ「象徴闘争」である。この事例の場合は同一階級(中産階級)間における象徴闘争であるが、一方で上流階級や下流階級といった大きな階級間における象徴闘争ももちろんある。その場合、上流階級の人は、A家族もB家族もひっくるめて「そんなものよりも懐石料理だ」的な「卓越化」をし得るし、下流階級は「安くて美味いところが一番や」という「卓越化」が考えられる。つまり、あらゆる選択は同一階級間でも階級間でもミクロ・マクロにおける不断の闘争が内包されているというわけである。

 

ハビトゥス:
あらゆる行動の源泉として、ある階級・集団に特有の行動・知覚様式を生産する規範システム。身体化された社会構造。「こうしたら私は卓越化できる」の体系。生まれ育った環境(=全体的な社会階級における自らの位置)が土台となり、その後に辿るライフコースに応じて絶えず再編されながら、現在における自らのハビトゥスは形成される。

 

界:
様々な形態が考えられる文化資本だが、どの文化資本が「卓越化」の道具となりうるかは「界」によって決まる。例えば「絵画の良し悪しがわかる」という文化資本を有する者がいたとして、それが卓越性に寄与するかどうかは「界」によって異なる。「学生界」や「社会人界」においては優位に働くかもしれないが、一方で「暴走族界」等ではそれほど意味を持たないことが想定できる。各人はあらゆる「界」に同時に参加(非参加)しており、かつどのような「界」で自らが「卓越化」していたいかは「ハビトゥス」によって決まる。よってある行動を分析する際に重要なのは、対象者の「ハビトゥス」とその「界」の存在である。

 

「ハビトゥス」+「界」=「行動」

 

それでは本文に戻ります!これらの諸概念を西陣に照らし合わせてみましょう。

 


○西陣というプリズム

 

エリア単位としての西陣が参加する「界」の検討に先んじて、文化資本が織りなす西陣のプリズム的側面について確認します。

 

そもそも西陣には潤沢な「文化的資産」があります。西陣における「文化的資産」は寺社仏閣からまちのイメージまで様々な形で歴史的に蓄積されており、派手さはなくとも非常に魅力ある地域となっています。一方で、その魅力とはどの層(社会階級)にも普遍的に通用するというわけではないところが、現在の西陣のミソなのです。

 

 

学生を例にとってみましょう。上記は西陣地域における人口コーホートになりますが、2020年調査における15-19、20-24の年代層は増加傾向にあります。彼/彼女らが全て学生であるわけではありませんが、その大多数は学生であると推察できます、というのもこれらの増加は同志社大学の文系学部の今出川キャンパスへの移転と付随して生じていると分析できるからです。

 

同志社大学は元々、京田辺キャンパスで2年学んだのちに、3回生からいくつかの学部を対象に今出川キャンパスに移動する、という方式をとっていました。それが2013年より文系7学部を対象に今出川キャンパスでの4年一貫に変更され、その対象学生は実に2万人に上ったといいます。これにより今出川キャンパスの周辺を中心に大学生が大量に流入したことが想定されるからです。

 

このことを踏まえると、2010年から2015年における全体的な人口増も理解できます。小川統計区なんかは凄まじいですね。

 

よって、現在の西陣において、学生というのは見過ごすことができない強力なひとつの勢力として理解ができます。一方で、「学生界」というひとつの界において支配的な価値観と西陣の魅力とは大きな乖離がありますよね。西陣には多くの名高い寺社仏閣があり、各所で美味しい珈琲が飲め、美味しいご飯が食べられ、晴れた日の船岡山は清々しく、雨の日の三上家路地は濡れた石畳がきらきらと艶めかしい、総じてアミューズメントな空間…。ですが、多くの学生にとってはそれほど魅力な場所になり得ない。これは西陣に点在する学生マンションに住む学生のほとんどが、バスや自転車を活用して東へ移動する姿に如実に表れています。西陣より東側には四条河原町や祇園や東山といった消費の中心地的な場所が偏在し、学生はそこへ吸い込まれていきがちです。だからこそ、西陣をフィールドに活動している学生は一様に文化資本が高いように感じます。私の場合はただ母親の影響が大きいだけですが、KéFUの大成くんなんかは象徴的でしょう。

 


大成くんはnoteも書いています。ご一読あれ

 

学生に留まらず、社会人においても同様です。西陣のお店を利用し、愛好する人々は、一様に文化資本が高い(客観的に高い)ような感覚があります。食事にしても、お腹一杯を目指すというより良いものを落ち着いて適量食べるというような。音楽にしても、有線で「邦楽週間人気ランキング」を流すのではなく事業者の好む音楽を流すような…。書いてしまうと非常に矮小になってしまうこれらが馴染む空間が、西陣には点在していて、こうしたこだわりをもつ店の大きな傾向として「西陣自称行動」があるというわけです。

 

この点において西陣は、店を営む事業者側、店を利用するお客側の双方における文化資本量の高い主体、つまり社会空間図式の「左寄り」の人々によって親しまれている地域であると指摘できるかと思います。

 

現在の西陣は、文化資本の高い事業者(多くは個人店)が自らの想いを込めた事業を展開する土壌ができており、かつそれらを楽しめるような(「ハビトゥス」を身体化した)利用者(=客)の需要がうまく嚙み合った地域として存在している、というのが私の仮説です。文化資本量を媒介とした、「見える人には見える」魅力こそ、現在の西陣を語る上で重要なのではないでしょうか。聞き取り調査にて、西陣の魅力として多くの事業者が語ったのはその「落ち着き」でした。そもそも西陣は職人のまちとして古き歴史をもち、従来そこに住む人々は「日常の京都」と表現されることもあるほど、まちの色調として非常に穏やか、ゆったりとした時間が流れています。主要都市部から離れ、さして交通の利便性があるわけでもなく、派手なブランディングもされていないからこそ、西陣は「落ち着き」のある地域であり続け、その眼に魅力が映る者のみを選別して惹きつけているというわけです。

 

○「京都市内商業界」における西陣のポジション

 

そして残された問いである「<義理はない>―<西陣自称行動>」の謎は、「京都市内商業界」という「界」を設定することで浮かび上がってきます。京都市内における西陣の「象徴闘争」について、確認していきましょう。

 

そもそも「西陣」というのは京都市内におけるエリアを表す通称として存在しています。京都市内におけるその他のエリアとしては「祇園」や「東山」、「四条河原町」等が挙げられるかと思いますが、それらの多くは観光地化や都市化の進行とともに大規模な資本流入が生じ、そもそも地価の著しい高騰から個人店などでは到底入ることができない状況となっているのが現状です。地価をクリアできる大手資本や外部資本の寡占状態となったそれらのエリアは、良くも悪くも消費主義化の一途を辿り続けて金脈のようになっているように見えます。つまり、上記のエリアは社会空間図式における右寄りの人々によって再編され、経済に従属させられているという側面が小さくないということです。

 

このような京都市内の惨状と西陣は対照的です。上記の図表は現在の京都市内の地価公示をまとめたものですが、西陣地域は京都市内他エリアと比較して圧倒的に地価が安く、よって小規模な個人店でも出店ができる土壌があると言えます。そして「町家ブーム」が推進した商業空間化と相まって、それらを楽しめる顧客も安定的に供給ができる地域というのが、西陣地域というわけです。

 

 

めちゃくちゃざっくり図式化すると、京都市内における著名な商業的エリア(観光エリア)は図式でいうと右寄りに陥落し、それらに対し西陣は左寄りの魅力を保持しているということです。「別に右寄りでもいいじゃないか!」という批判もありそうですが、重要なのは、新自由主義経済の台頭によって多くの地域(京都市内に留まらず日本、そして世界でも)が「右寄りの地域」として再編成されつつある中で、西陣は左寄りの主体が楽しめる地域としての姿を維持している、という点にあるでしょう。

 

ここまで確認した上で、もう一度ブルデューの「象徴闘争」概念に立ち返りましょう。西陣に蓄積された文化的資産―「質の高さ」や「職人技」や「洗練性」といった抽象的な資産―を眼差すことのできる事業者は、その良好なイメージを自らの事業に付与するために「西陣自称行動」へ繋げます。個々人によるこの実践は、複数の自称行動が束となることで商業的なエリアとしての「西陣」が確立されていきます。一方で、西陣自称行動をとることに価値を見出せる事業者にとって消費主義的な価値観は相容れない。よって彼/彼女らによって語られる西陣は「洗練性」と並行して「非消費主義」的な色調を帯びていきます。つまり、元々は事業者らが所属する(社会空間における左寄りの)社会階級における「卓越化」の戦略として生じた実践が、複数性を帯びることで西陣というエリア単位における「卓越性」の付与に通じたということです。

 

そしてこれら一連の流れは、「京都市内商業界」における西陣というエリアの持つ、他エリアと比したときに生じる「卓越性」の発現―消費主義的でなく洗練的なエリアとしての―にも結果として寄与しているというのが、私の立てた最終的な仮説となります。

 

現在における西陣の良さって、いったい何でしょうか。ひとつの回答として思い浮かぶのは、観光振興の旗振りとともに「わかりやすい」京都的空間として再編されてしまった他エリアとは様相を異としながら、穏やかで豊かな「日常としての京都」を保つ西陣の姿です。以下、KéFU HPからの引用です。

 

 

KéFUのコンセプトに仮託されている「卓越的感覚」を、本記事を読まれた方々には感受していただけるのではないでしょうか。

 

ここまで読み切ってくださった皆様、ありがとうございました。今回の内容は卒論を通じて実施した聞き取り調査を土台に書いていることを最後に申し添えておきます。具体的な店名を出していない関係で少し理解しづらい部分もあるかと存じますが、「あのお店はそうかな?」などと想像していただけますと幸いです。
次回は最終回、西陣機業以外のアクターが「西陣となりうるか」について議論を行い、本連載を閉じたいと思います。
お読みいただきありがとうございました!

 


(参考文献)
片岡栄美・村井重樹,2020,「食テイスト空間と社会空間の相同性」『駒澤社会学研究:文学部社会学科研究報告』駒澤大学文学部社会学科,55: 1-23.

 

(ブルデュー参考文献)
Bourdieu, Pierre, 1979, La distinction: Critique sociale du jugement, Les Editions de Minuit(石井洋次郎訳,1990,『ディスタンクシオン――社会的判断力批判Ⅰ・Ⅱ』藤原書店)
⇒原著。鈍器本かつ超絶難しいので、以下の解説書から入るのがおすすめです。

 

(易)岸政彦,2020,『100分de名 ディスタンクシオン』,NHK出版.
(やや易)石井洋二郎,2020,『ブルデュー『ディスタンクシオン』講義』藤原書店.
(やや難)加藤勝久,2015,『ブルデュー 闘う知識人』講談社選書メチエ.

 

また、YouTubeでもいくつか動画が上がっており、以下がおすすめです。

 

帰ってきたロシュフコー『ブルデューのディスタンクシオンを解説【社会学】』
⇒超わかりやすいです。上記の石井(2020)を解説した構成となっています。

 

以下はもう少し踏み込んだ内容になっていますので、3つ全て視聴すれば概観は把握できると思います。

 

ふひと:人文系YouTuber『【ブルデューの思想】文化資本とは何か【ディスタンクシオン】』
アーカイブ社会学講義『社会学基礎講義5』