問答無用ですっぽん料理

 

すっぽんは爬虫綱カメ目スッポン科スッポン属に分類されるカメであり、すっぽんといえば、「月とすっぽん」という慣用句で有名だ。「月とすっぽん」というのは、月もすっぽんも表面的には類似しているが、両者には大きな差があり、一方の方が他方より遥かに優れているという意味らしく、複数のものを比較するときによく用いられる。ここでは月とすっぽんはどちらが優れているかということにはあえて言及しないでおくが、突然何者かに呼び出されたかと思えば、勝手に月の比較対象にされ、挙げ句の果てには慣用句として残されてしまうすっぽんも、なんだか不憫に思えてならない。

 

そんなすっぽんを食べてみようなんて、生まれてこのかた考えたことがなかった。しかし、実のところすっぽんは食べることができるらしい。京都の西陣にある「大市」というお店は、すっぽん料理のお店だ。創業は今から340年以上も遡る。もちろんぼくは生まれていない。それどころか、現時点で地球上に存在する人間は誰一人として生まれていない。江戸時代から、将軍が代わり、時代が変わり、天皇が代わり続けてきたこの340年間、その時代の人々に愛され、代々受け継がれてきたのが「大市」だ。

 

 

本来、22歳で大学生をしているぼくが「大市」に行けるはずなんてない。行けるはずがないのだけれど、幸運なことにそんな機会を得て、セットアップの一張羅を身に纏い、革靴の音をコツコツと響かせながら「大市」を訪れた。厳かに佇むその建物の前に立った時のぼくの感情を振り返って表すなら、それは緊張だ。学習院高等科を主席で卒業し、天皇から銀時計を賜った三島由紀夫もきっと同じような緊張を感じていたのかもしれないし、そうではないかもしれない。

 

そんな緊張に手をわなわなと震わせ、時間をかけて靴の紐を解き、いくつかの日本庭園を横目に見ながら廊下をずんずんと進み、襖で仕切られた個室の中へと入ってゆく。小津安二郎の映画の撮影に使われていそうな空間には鮮やかな太陽が大きく描かれた掛け軸がかかっており、例えばもしもお雑炊が出てくるならば、この太陽くらい鮮やかな色をした卵が乗っていたらさぞ美味しいだろうなぁなんて思いながら席に着く。

 

 

瓶のビールを飲みながら、すっぽんのお付出しをいただく。すっぽんの肉は柔らかく上品な鶏肉のようで、小さな骨には様々な形があってかわいらしい。「イサムノグチの彫刻のような骨だ」なんて話していると、グツグツどころかゴツゴツに沸騰したすっぽん鍋が運ばれる。すっぽんの肉にはゼラチン質が含まれているため、超高温で一気に加熱しなければ溶けてしまうそうだ。だから「大市」では、なんと1600℃もの高温で熱しているらしい。そんな話を皺がひとつたりとも見つからない着物を召した女将さんに聞いた。ちなみに、太陽の表面温度は約6000℃であるらしい。「大市」のすっぽん鍋を4つほど集結させれば、太陽が作れてしまうのではないかと思うのはぼくだけだろうか。

 

グツグツどころかゴツゴツと湧き立つ鍋からすっぽんのスープが注がれた後、別の茶碗にすっぽんの肉が盛られる。このスープに日本酒を注いでも旨いと聞き、日本酒をいただいて実践してみれば、米から作られる日本酒の甘みと、生姜の辛みがよく効いたスープが調和して見事なシンフォニーを奏でている。すっぽんの肉からユニークな形の骨を発掘していると、再び鍋がやってくる。熱々の状態ですっぽん鍋を食べることができるように、2回に分けて運ばれてくるそうだ。そんなすっぽんへの強固なこだわりとすっぽんの肉を同時に噛み締めていると、襖が開き、お雑炊が運ばれてくる。ぼくが望んだ通り、太陽のように鮮やかな卵が4つ、乗っかっている。卵を割らずに茶碗に取り分けてもらい、それを茶碗の中で割る。もっとゆっくりと時間をかけて味わいたいのに、あっという間にペロリとなくなってしまう。瓶ビールのおかわりをもらおうと声をかけた時には「そろそろかと思いまして」と言いながら、瓶ビール持ってくる女中さんや、「いつも果物屋さんが持ってきてくれはるんですけど、私たちも”今回は柿か~”と言って楽しみにしてるんです」と言いながらデザートの柿を出してくれる別の女中さんの着物にも皺はひとつも見当たらない。

 

 

空間、料理、サービス全てに非の打ちどころのない「大市」は、今のぼくがどれだけ背伸びをしても手の届かない場所であり、いつか自分の力で訪れてみたいとは思うけれど、そんなことよりも、次に「大市」を訪れる機会があるとすれば、その時はもっとリラックスして食事やすっぽんとの対話をを愉しめるような、余裕のある大人になっていたい、そう思った。