西陣にまつわる
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重永瞬

京都大学文学部地理学専修重永瞬

地図とまち歩きが好きな大学生。“西陣の端っこ”(お隣?)仁和学区で生まれ育つ。大学で地理学を学ぶかたわら、まち歩き団体「まいまい京都」でスタッフとガイドを務める。なんでもない街角の記憶を掘り起こしたい。古本とラーメンが好き。

2022.03.29
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京都の公園にはときどきお地蔵さんがいる。子どもたちを見守るようにひっそりと立つ姿を見ると、生活のすぐそばに信仰があることを思い知らされる。中でも私が印象深いのは、旧西陣小の横にある公園に立つお地蔵さんだ。
由来書には、「本地蔵尊はこの公園の地中にて永年修行され此の度花壇造成の際出土されたもの」と書かれている。埋まっていたのではない。修行されていたのだ。ほんのささいな言葉遣いに、お地蔵さんへの敬意が感じられる。
京都で土木工事をしていると、ひんぱんにお地蔵さんが出土する。秀吉が作った「御土居」からもお地蔵さんが出てきたことがあるという。あなたが町で見かけるお地蔵さんも、どこかで修行をされてきたのかもしれない。
実際に土中には籠ったことがある人はそうそういないだろうが、人間にも雌伏の期間というものがある。そしてその期間が「修行」になるかどうかは、人の解釈次第だ。あなたの由来書には、いったい何が書かれるだろうか。

2022.02.25
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建物や道路の間にある余ってしまった土地のことを「残余地」という。ヘタ地や三角地と言ったりもする。「碁盤の目」の街である京都にも、ときどき残余地は発生する。写真は新町通りにある残余地で、道路の食い違いを解消するべく斜めに道を通した結果生まれたものである。
残余地にはどこかマニア心をくすぐるものがある。建物の敷地としては使いづらい残余地には、自動販売機が置かれたり、ゴミ捨て場になったり、あるいは緑地として利用されたり、「余っている」がゆえの利用法が見られる。それが面白い。
しかし、ここの残余地はまったく手が付けられていない。全面が導流帯(ゼブラゾーン)になっており、何も置かれることなく純粋な「残余」となっている。普通なら、これだけの広さがあれば軽く芝生を敷いてみたり看板を立てたりしそうなものだが、そんなことは一切しない。そこにはただ「無」があるのみである。
使えるものは何でも「活用」する昨今の風潮とは真逆を行くこの残余地には、孤高の美学すら感じる。余っているのではない、余らせているのだ。この残余地が失われるとすれば、それは京都という街に「余裕」が無くなったときなのだろう。

2022.01.23
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京都に雪が降った。こんなに積もったのはいつぶりだろうか。ここまでの雪景色が見られる日もそうそう無いと思い、北野天満宮に行ってみた。
境内には、雪を見に来たであろう参拝者が少しばかりいた。寒梅を愛でたり、雪帽子をかぶった牛の像を撮影したり、それぞれ思い思いに風景を楽しんでいた。
ふと道を見ると、ちょうど人が歩いたところだけ雪がとけていた。皆が歩く道は、石畳が見えるほどにしっかりと雪がとけている。一方、脇道はまだ一つ一つの足跡が分かる程度にしか歩かれていない。雪によって、人の動線が可視化されているのだ。
足跡がつくる「参道」をたどっていると、ときどき思いもよらぬ場所に続く足跡が見つかる。気になるものがあったのか、良いフォトスポットを見つけたのか、はたまた単にふかふかの雪を踏んでみたくなっただけなのか。探偵のように推理してみるが、答えは出ない。
一つ足跡ができると、また別の人がそこを通ろうとする。人が通るたびに太くなっていく軌跡は、しだいにそれが「軌跡」であることすら分からなくなっていく。誰も踏まなかった雪も、陽射しが強まるにつれてとけていった。次に雪が降るのはいつだろうか。

2021.12.13
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あなたは「ビルトイン地蔵尊」を知っているか?
文字通り、建物にビルトイン(組み込み/埋め込み)されたお地蔵さんのことである。路上観察における一種のカテゴリ、観察対象と思ってもらえればよい。ツイッターで「#ビルトイン地蔵尊選手権」と検索していただければ、雰囲気が分かるだろう。名づけ親であるmakes no sense氏(@onmusiconlife)のほか、何人もの人が写真を上げている。
「地蔵尊」とあるが、祠であれば何でもよいらしい。また、「選手権」とあるが別に1位を決めるわけでもない。ネーミングは語呂の問題である。地蔵といういかにも伝統的な存在が、近代的なビルに埋め込まれる。そのギャップがなんとも魅力的だ。makes no sense氏はこれを「収納される信仰心」と形容しているが、その表現もまた素晴らしい。
お地蔵さんの多い京都には、当然ビルトイン地蔵尊もたくさん存在する。西陣を散策しているとときどき遭遇するので、私はそのたびに写真を撮っている。しっかりとお地蔵さんの居場所が確保されているところに優しさを感じ、嬉しくなる。
お地蔵さんとは、非合理の象徴であると思う。直接的には経済的価値を生むわけではないお地蔵さんのような存在は、世の中にいくつもある。我々が生きる「社会」という建物は「お地蔵さん」をビルトインできているだろうか。

2021.11.14
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地図はデカければデカいほどよい、という安直な自説をここに開陳する。長年の持論というわけではなく、ほんの小一時間前に思いついた考えである。
ちょうどこのコラムを書いている今日、オサノートのリレーコラム執筆者で交流をする会があった。場所はオサノートの読者ならおなじみ、「KéFU stay & lounge」である(ピンとこない人は直ちに、直ちに調べてほしい)。そしてKéFUの壁には京都の地図が大きく描かれている。デカい。
これを見て思った。地図は大きさこそ正義だ。江戸時代の絵図には、たたみ一畳分ほどもあろうかという大絵図もある。部屋いっぱいに広げ、まわりを囲んで見たのであろう。地図は全体と部分の関係が重要だ。細部の街路形態と全体の都市構造の両方を見ようと思うと、やはり地図は大きくあってほしい。
大きい地図を置くなら大きい空間が必要だ。伊能忠敬の伊能大図なんて体育館いっぱいに広げないといけないそうじゃないか。そんな大きな空間は当然地図にも描かれる。もっと大きい地図だと、“地図が地図に描かれる”なんてこともあるかもしれない。じゃあ現実の街そのものと同じ大きさの地図だと…?
うーん、大きすぎるのも考えものだ。KéFUの地図くらいがちょうどいいのかもしれませんね。

2021.10.15
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街角に古写真が吊るされていた。石畳が敷かれ風情ある町並みが広がる西陣大黒町界隈の一角だ。ちょうどこの日は町内の行事があったようで、近くに設けられた舞台で歌や仮装などが行われていた。会場には屋台が出され、近隣の介護施設の人たちも集まっていた。もう2年ほど前のこと。コロナ禍以降はすっかり見られなくなった光景だ。

写真には昭和の京都の姿が写されていた。町内の人から集めたものだろうか。きっとここに集まっている人たちにとっては、若いころを思い出させる懐かしい風景なのだろう。二条の駅前にあったという櫓を持った旅館や、まだ街路樹も十分に育っていない堀川通など、よく知る場所の知らない風景に、私はしばし足を止めて見入っていた。

古写真は場所の記憶の饒舌な語り部だ。たとえモノクロであろうとも、それは色鮮やかに当時の光景を伝える。視覚だけではない。音も。匂いも。古写真の語りは、やはりその場所で見てこそ一番伝わってくる。私はもっと、街角に古写真が増えてほしい。今まさに自分がいる場所の、ほんの少し昔。それが分かれば、まち歩きはどれほど楽しくなるだろう。

2021.09.14
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京都の街にはたくさんの石碑が立っている。道の片隅にポツンとあって目立たないけれど、しっかりと街の歴史を伝えている。中には風雨にさらされて文字が読めなくなっていたり、車にぶつけられて折れた跡があったりする。かわいそう。
中立売通と大宮通の交差点には、「聚楽第」の跡を示す石碑が立っている。豊臣秀吉が建造した城・聚楽第はできて早々に取り壊されてしまったものの、地名や道路の高低差にその痕跡を留めている。この石碑の位置は聚楽第の東堀にあたり、写真の奥に写るハローワーク西陣の建替工事の際には、たくさんの金箔瓦が出土したという。
石碑の下を目を移すと、何やら怪しげなものがあった。排水溝の脇にあるそれは、どうも折れた石碑のようにも見える。もともとここに立っていた石碑が、道路を整備するときに車の邪魔になるからと折られてしまったのだろうか。折れた跡が埋められることもなくむき出しになっている姿は、なんだか傷口を見ているようで痛々しい。
これが何者なのかは分からないが、もし石碑だとすると、胴体の部分はどこに行ってしまったのだろうか。今もどこかで元気にしているだろうか。ここを通るたびに、その安否が気になってしまう。

2021.08.15
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船岡山。西陣の北方にある小高いこの山は、平坦な京都盆地にあって珍しいランドマークとして親しまれている。学校の遠足で登ったという人も多いだろう。山の北側は公園になっており、広場のほかに野外ステージも設けられている。
この公園の一角には、何やら荘厳な雰囲気のモニュメントが建っている。これは昭和10年に建造された「ラジオ塔」である。昭和初期以降、ラジオ放送の普及のため全国各地にこのような塔が建てられた。京都では、円山公園をはじめ8ヶ所に現存する。
昭和初期には、現在では夏休みの風物詩となったラジオ体操も「国民保健体操」という名前で開始された。全国の国民が同じ時間に同じ音を聞き、同じ動きをする。これまでにないこの経験は、人々が国民国家としての日本を強く意識する契機になったことだろう。
ところで私が気になったのは、このラジオ塔の向きだ。広場からラジオ塔を見ると、どうもその延長線上に、御所があるように思えた。しかし、地図に線を引いて確かめてみると、京都御苑をかすりはするものの、京都御所からはズレている。京都ならありそうな話だと思ったのだが、残念ながらその読みは外れだったようだ。まあ、そういうこともある。

2021.07.16
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西陣のほど近く、北野天満宮の門前に、「下ノ森」という一角がある。北野商店街のアーケードが途切れ、簡素な作りの商店が並ぶこの場所は、なんともユニークな場所の系譜を持っている。
かつて北野天満宮の境内だったこの場所には、明治33年に京都電気鉄道が開通したことにより、その終着駅が置かれた。明治35年の菅原道真千年祭の際には、かねてより計画されていた「神苑」が設置された。千年祭を記録した『千年祭北野会誌』には小川治兵衛の作庭とあるが、本当かは分からない。神苑は多くの香具師が露店を出し、「広告塔」や「軽気球」まで出されたようだ。
さらに、大正3年には、大日本武徳会による武道場「北野武徳殿」が建てられる。こうして下ノ森は祝祭・修養の場となったが、一転、昭和41年になると神苑は閉鎖され、西陣警察署がこの地に移転してくる。武徳殿も平成に入ってから閉鎖され、東山の山上へと移築された。現在の青龍殿である。
警察寮の敷地には現在も北野神苑の設置を記念する碑が建っているものの、立ち入りは禁止されている。もどかしいが、外から見るに留めておこう。失われた光景を眺めるには、きっとそれくらいの距離がちょうどいい。

2021.06.17
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「西陣」とは、いったいどこを指す地名なのだろう。公式の住所としては、「西陣」という地名は存在しない。そこで、試しに名前に「西陣」とつく法人(会社や組合など)の分布を調べてみた。もちろん、京都以外にも西陣を名乗る法人はいくらでもあるので、あくまで参考程度である。

もっとも「西陣」法人が集まるのは、上京区の中でも西陣、桃薗、乾隆、嘉楽の4学区を中心とするエリアである。これは多くの人の実感とも一致するのではないだろうか。そのほか、周辺の学区や上京区外にも「西陣」法人が点在する。

この地図の範囲外にも「西陣」法人は多く存在する。元々西陣にあった企業が移転したものもあれば、「西陣」ブランドにあやかったものもあるだろう。北は北海道中標津町から南は宮崎県宮崎市まで、その数は143件に及ぶ(一部閉鎖したものを含む)。「有限会社西陣」だけで14も同名の法人があるのだから驚きだ。

「西陣」は地名ではあるが、それは「ここからここまで」と線を引けるようなものではない。「西陣」とは、そこに関わるヒトやモノの総体を指すのではないか。そう、きっとあなたもこのサイトに訪れることで、ちょっとばかり「西陣」になっているのだ。