生きてきた文脈と西陣

○ハードな街、西陣

 

「西陣」という街がある。
それはあまりにも不定形で漠然としていて、そしてハードな街だ。明確な範囲が不在であるこの街は、曖昧な輪郭をその身に宿しながら、大きく静かに佇んでいる。だからこそ、西陣は生きていると言える。行政や資本による権威付けを必要とせずに、生きた空間として、自らの力によって存立し続けている。そんな厳然たる西陣を前に、私は茨木のり子を連想する。

 

もはや
いかなる権威にも倚りかかりたくない
ながく生きて
心底学んだのはそれくらい
(茨木のり子「倚りかからず」より)

 

茨木のり子が開示したこの価値観を、まさに身をもって体現する地、西陣。ただ、このように強い自主性を謳ったこの詩は、以下の3行にて締めくくられる。

 

倚りかかるとすれば
それは
椅子の背もたれだけ
(茨木のり子「倚りかからず」より)

 

何ものにも倚りかからない西陣にも、唯一倚りかかっているものがある。
そう、我々である。我々は、京都特有の通り名の掛け算で場所を表現する、という限りなく合理的なシステムを放棄して、敢えて「西陣」を呼称し、自称し、その中を生きている。そのことは私に、大いなる仕組みの中で、様々な鋳型に沿って生活している近代的人間の、剥ぎ取られた主体性の復興を垣間見ずにはいられない。

 

生きた空間としての西陣に触れるとき、我々の身体も息を吹き返すのだ。

 

○自己紹介

 

はじめまして。私、太田大晴(オオタタイセイ)と申します。同志社大学で都市社会学を専攻する三重県出身の22歳で、大学進学を機に西陣の地で下宿するようになり、生活する中で西陣の魔力に吸い込まれて、卒業論文のテーマにまでしてしまいました。私の関心は、

 

「強固な伝統を持つ西陣という場所が、西陣織の趨勢とともに街としての姿を変えている。一方で、西陣エリアには”面白い店”がぽつぽつと生じている実態がある。交通的にも集客的にも良いとは言えないこの地で、そんな現状が生じているのはなぜか?」「西陣エリアの”面白い店”」。学術的には耐えられないほど抽象的な表現ですが、これを読んでくださっている皆様の頭の中にはきっと思い浮かぶものがあるのではないでしょうか。
こだわり、であったり。社会的意義、であったり。文化・伝統、であったり。
そんなお店が、西陣で営み、西陣でやっていると自称している。こうした現実に密かに含まれた不思議に迫りたい。そして、この問いは、序論にも込めたある重要な価値観へと繋がるポテンシャルを持っているはずだ。こういった想いを胸に抱いて日々取り組んでいます。

 

○私と煉瓦と古都と

 

三重県の片田舎に生を受けた自分にとって、京都に憧れ、数ある学問の中から社会学を選択するのにはいくつかの経緯がありました。

 

京都との出会いは小学生の頃。両親は年に1回ほどの頻度で、私と妹を日帰り京都旅行に連れて行ってくれていました。朝5時半に家を出て、高速道路は後部座席で寝呆けて、7時頃に到着すると、寺町のスマート珈琲店に並んで朝ごはんを食べる。そんな完璧なスタートをルーティンとして、タイムリミットまで京都を満喫していました。

 

母親に連れられて行った蚤の市。父親に連れられて行った寺社仏閣。何となく良さは感じるものの、当時の自分にとって最も魅力的だったのは烏丸御池のマンガミュージアムでした。この記事を書きながら、家族の散策が終わるまでずっと『怪物くん』を読んでいた小学2年の記憶が蘇ります。

 

そんな旅行の、ある日の帰り道。密度の高い一日を過ごして疲れ果てた私は、烏丸通を南へ進む車の中で首を車窓にもたげていました。寒さの募る晩秋の暮れ際で窓は冷たく、もしかすると呼気で絵を描いていたかもしれません。そうしていると、何か突然目を引く建物が飛び込んできました。暮れなずむ夕日の残光に照り映えた煉瓦造の建物が、車の速度に合わせて颯爽と過ぎていきました。

 

「お父さん、あれ何。」
「同志社大学っていうんやで。」

 

テレビや雑誌や、旅行で触れた京都の質感とは異なるその建物は、ほんのその数秒間を持って言葉もなしに強く語りかけてきました。

 

かっこいい。

モダン建築の代表として取り上げられることも多い同志社大学の今出川キャンパスは、中学も高校もまだ経験してない小さな少年の心をも鷲掴みにし、以来、憑りつかれたかのように同志社大学進学を志すようになっていきました。

 

○塾の片隅で社会を眼差す

 

小中と打ち込んでいた陸上競技を続けるため、高校は県内屈指の進学校ではなく、スポーツの強い偏差値50前後の私立高校に進みました。その最たる特徴が男子校であるということ。高校という化けの皮を被った動物園に突然放り出され、「男子のるつぼ」の中でもみくちゃにされながら800mに死ぬ気で取り組みました。努力は実ることなく、入学時の目標であったインタ
ーハイ出場は寸分も叶わぬままに私の競技人生は静かに終わります。

 

高校3年の6月。部活を引退した私は、指定校推薦か一般受験かの岐路に立っていました。私の高校はカトリック系で、成績さえあれば同じ教派の大学に推薦入学ができました。中には都内の有名大学もあり、選択によってはそれほど努力せずに高尚な学歴を手に入れることが可能でした。しかし、私の心にはあの日のあのキャンパスが克明に焼き付いていました。また、精神の成熟とともに鴨川や寺社や蚤の市といった〈京都的なるもの〉への憧憬が溢れかえるようになっていました。文学にも多分に影響を受け、川端康成や森見登美彦の文章を通して遠く離れた古都の日常を夢見ていました。

 

それに、陸上競技で結果を残せなかった自分がこのまま推薦入学をしたら、高校時代として何も残らなくなる。何かやり遂げた経験がないと今後の人生を胸張って歩めないのではないか。そんな想いもあり、私は一般受験の道を選びました。尊重して経済的に援助してくれた両親には心の底から感謝しています。

 

受験勉強は熾烈なものでした。大して対策をしていなかったため、引退後最初の模試は勿論E判定でした。その後もずっと、最高でもD判定だった記憶があります。塾にも行きましたが、地域の進学校が集うその校舎の中で、私は異質な他者として息をひそめざるを得ませんでした。「○○高校のやつおるぞぅ!」と小馬鹿にする声を耳にしたこともあります。当該高校の制服
をメルカリで検索しまくった塾帰り。あの制服さえ着ていれば馬鹿にされないのではないか……。車輪が奏でる「ガタンゴトン」に慰められた、温い車内の乾いた寂しさは忘れられません。

 

そういった日々の中で、私はあることに気が付きました。
塾にいる進学校の子達は勉強ムード全開で、それは友人間でも共有されているような感がある。反して私の高校は高3の10月にもかかわらず、ほとんどの生徒が指定校で進学することから勉強ムードは限りなく希薄で、ペットボトルキャップ野球が流行している。勉強をするという個人的行為においても、この環境の違いは雲泥の差を含んでいるのではないか。問題集をめくりながら、教卓の横でペットボトルバットをぶんぶん振り回す同級の笑顔を見て、個人が所属する集団の影響という直感を掴みました。この「集団の中の個人」といった考え方が、私を社会学に誘ってくれました。

 

その後も陸上競技で培った集中力、そして進学校に対する反骨精神で勉強に打ち込み、何とか合格を得て今に至ります。燃え尽き症候群で退廃的な生活を送った1回生から、コロナショックと尊敬する教授との出会いと特に仲の良かった友人3人が全員退学する激動の2回生を経由して、私が西陣で社会学するきっかけは次回に。
お読みいただきありがとうございました。