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西陣にまつわる人々が、毎日綴るリレーコラムCOLUMN

2021.06.29
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私が西陣地域で「何かした」はじめが2005年であったことははっきりしているが、その地域一帯が西陣と呼ばれていると認識したのはいつのことだったか、記憶は曖昧なことになっている。
初めて接した地域は「上七軒」と呼ばれていたし、その次に出会ったのは「織成舘」と「大黒町」だった。他所から来た私が「西陣」という言葉をそれなりに正しく使えるようになるには、5、6年かかったような気がする。 それでも、西陣という言葉がすっと腑に落ちた記憶がある。
私の育ったまちの駅前に工場があり、そこから伸びる大きな煙突に、「西陣染色」と書いてあったからだ。
その駅の手前側出口までが小学生の私の行動範囲であり、煙突はしょっちゅう目にしていた。梅田の眼医者へ行く時、親戚のいる桂や堺を訪ねる時、中学、高校になって一人で電車を使うようになってから、私は何度あの煙突に書かれた「西陣」を目にしただろうか。
だから、「あ、ここがあの西陣か」と気づいた時の感覚は、全くはっきり思い出せる。何か運命を感じて少し嬉しくなった感覚も。
当の工場は既に閉鎖し、今は大きなマンションが建っている。平成時代、阪急京都線相川駅界隈のことである。

益山周三

副理事 事務局長益山周三 特定非営利活動法人 ANEWAL Gallery

2005年から「都ライト」をはじめ、西陣界隈で楽しく過ごしています。近年は「西陣マルシェ」「能舞台フェスタ」でしたが、コロナで先行き見通せず。漫画を描いています。写真はボツになった作品の主人公。供養。