現在、「北野寮」という建物の解体工事が進んでいる。北野天満宮の門前、御前通に面した場所に建つ、京都府警察の単身寮である。
子どもの頃から、天神さんにお参りに行くときはいつも北野寮の前を通っていた。昔はまったく気にも留めていなかったが、改めて見るとなかなか洒落ている。モダニズム建築に特徴的な水平に連続する窓の合間に、小豆色のパーツがリズム良く配置されている。各階の区切りは長押のようにも見え、カラーリングも相まって和の趣が感じられる。
この記事の執筆時点ではすでに建物のまわりに足場が組まれており、北野寮は間もなく解体されるだろう。特に文化財に指定されているわけでもなければ、マニアの間で話題になるような建築でも(おそらくは)ない。
しかし、どんな建物であれ、取り壊されると聞くととたんに名残惜しさがこみ上げてくる。それが小さい頃から目にしてきたものであればなおさらだ。この風景が失われたとき、私は何を感じるのだろうか。まったく語られてこなかったこの建物の最後の姿を、ここに留めておきたい。
メンバーMEMBER
京都大学文学部地理学専修重永瞬
地図とまち歩きが好きな大学生。“西陣の端っこ”(お隣?)仁和学区で生まれ育つ。大学で地理学を学ぶかたわら、まち歩き団体「まいまい京都」でスタッフとガイドを務める。なんでもない街角の記憶を掘り起こしたい。古本とラーメンが好き。
昨年の11月に堀川商店街のそばにできた堀川新文化ビルジング。大垣書店やカフェなどが入っており、イベントスペースも併設している。文字通り、商店街に新しい文化を根付かせる核となるような施設だ。私も大学からの帰り道によく立ち寄るのだが、一つ気になっているものがある。
それはこの建物の入り口。道路と店内の間には二つ自動ドアがあるのだが、その二つが微妙にズレているのだ。点字ブロックもそれに合わせてカクカクと曲がっている。真っ直ぐ並べても特に問題はなさそうなのに、なぜか曲げられている。
これを見て、私は「参道みたいだな」と思った。社寺の参道は、しばしば途中で曲がり角が設けられている。直線にできる場所でも、あえて曲がらないと社殿に到達できないようになっている。建築家の槇文彦は、この折れ曲がりを神域の「奥」性を演出する空間装置と捉えた。
新文化ビルジングの入り口も、同じ意味合いを持っているのではないか。この建物は横に長く、奥行はとても短い。その「浅さ」を補うかのように、屈曲が設けられている。普段参道のことを考えすぎているせいかもしれないが、私はこの屈曲に「奥」を感じた。いつか、答え合わせをしてみたい。
所用で佛教大学に出かけた際、近くで一つの灯篭を見つけた。まわりを黒い柵で囲われたそれは、閉じ込められているようにも、こちらを見張っているようにも見えた。脇には、「今宮大神宮」と文字が彫られている。場所からして、今宮神社のもので間違いない。千本通からよく見えるので、見たことのある人もあるだろう。
灯篭が建つのは、千本通から絶妙な角度で分岐する小道の曲がり角。ちょうど三角地を眺めるように建っている。1960年代に道路工事が行われるまで、千本通は青で示したルートを通っていた。今宮神社からは少し離れているが、目印としてこの灯篭が建てられたのだろう。
去年旧楽只小学校跡地にリニューアルオープンした「ツラッティ千本」には、この近辺を描いた地図や模型が展示されている。展示によれば、地元の人はこの常夜燈近くに行くことを「かいどへ行く」と言っていたそうだ。
この三角地のそばには、飲食店がいくつも並んでいる。大豊ラーメンに天下一品、少し前までは「あさひ」というラーメン屋もあった。つまり、ここでラーメンをすする佛大生は皆、知らず知らずのうちに「かいど」に迷い込んでいるということだ。「かいど」のラーメン、皆さんも一杯いかが?
西陣の木は手招きをするらしい。
新大宮商店街を歩いていた時のこと。ふと街路樹を見やると、木から「手」が生えていた。手袋が木にかけられているのだろうか。それにしてはずいぶんと木に馴染んでいる。おいでおいでと手招きされ近寄ってみたが、近くで見ても区別がつかない。裏側を覗いてやっと、手袋だという確信を持つことができた。
もとは単に引っかけられていただけの手袋。月日が経つにつれ、コケだか地衣類だかに覆われ、徐々に木と一体化していく。ああ、これは街と同じだな、と思った。
新しい街にすぐに馴染むのは難しい。それでも、長くいれば否が応でもその街に染まっていく。気付けば、街の一部になっている。
西陣に来たばかりという人も、じきに「西陣の人」になってゆく。そのうち、どこかで手招きをしているかもしれない。西陣においで、と。
京都の公園にはときどきお地蔵さんがいる。子どもたちを見守るようにひっそりと立つ姿を見ると、生活のすぐそばに信仰があることを思い知らされる。中でも私が印象深いのは、旧西陣小の横にある公園に立つお地蔵さんだ。
由来書には、「本地蔵尊はこの公園の地中にて永年修行され此の度花壇造成の際出土されたもの」と書かれている。埋まっていたのではない。修行されていたのだ。ほんのささいな言葉遣いに、お地蔵さんへの敬意が感じられる。
京都で土木工事をしていると、ひんぱんにお地蔵さんが出土する。秀吉が作った「御土居」からもお地蔵さんが出てきたことがあるという。あなたが町で見かけるお地蔵さんも、どこかで修行をされてきたのかもしれない。
実際に土中には籠ったことがある人はそうそういないだろうが、人間にも雌伏の期間というものがある。そしてその期間が「修行」になるかどうかは、人の解釈次第だ。あなたの由来書には、いったい何が書かれるだろうか。
建物や道路の間にある余ってしまった土地のことを「残余地」という。ヘタ地や三角地と言ったりもする。「碁盤の目」の街である京都にも、ときどき残余地は発生する。写真は新町通りにある残余地で、道路の食い違いを解消するべく斜めに道を通した結果生まれたものである。
残余地にはどこかマニア心をくすぐるものがある。建物の敷地としては使いづらい残余地には、自動販売機が置かれたり、ゴミ捨て場になったり、あるいは緑地として利用されたり、「余っている」がゆえの利用法が見られる。それが面白い。
しかし、ここの残余地はまったく手が付けられていない。全面が導流帯(ゼブラゾーン)になっており、何も置かれることなく純粋な「残余」となっている。普通なら、これだけの広さがあれば軽く芝生を敷いてみたり看板を立てたりしそうなものだが、そんなことは一切しない。そこにはただ「無」があるのみである。
使えるものは何でも「活用」する昨今の風潮とは真逆を行くこの残余地には、孤高の美学すら感じる。余っているのではない、余らせているのだ。この残余地が失われるとすれば、それは京都という街に「余裕」が無くなったときなのだろう。
京都に雪が降った。こんなに積もったのはいつぶりだろうか。ここまでの雪景色が見られる日もそうそう無いと思い、北野天満宮に行ってみた。
境内には、雪を見に来たであろう参拝者が少しばかりいた。寒梅を愛でたり、雪帽子をかぶった牛の像を撮影したり、それぞれ思い思いに風景を楽しんでいた。
ふと道を見ると、ちょうど人が歩いたところだけ雪がとけていた。皆が歩く道は、石畳が見えるほどにしっかりと雪がとけている。一方、脇道はまだ一つ一つの足跡が分かる程度にしか歩かれていない。雪によって、人の動線が可視化されているのだ。
足跡がつくる「参道」をたどっていると、ときどき思いもよらぬ場所に続く足跡が見つかる。気になるものがあったのか、良いフォトスポットを見つけたのか、はたまた単にふかふかの雪を踏んでみたくなっただけなのか。探偵のように推理してみるが、答えは出ない。
一つ足跡ができると、また別の人がそこを通ろうとする。人が通るたびに太くなっていく軌跡は、しだいにそれが「軌跡」であることすら分からなくなっていく。誰も踏まなかった雪も、陽射しが強まるにつれてとけていった。次に雪が降るのはいつだろうか。
あなたは「ビルトイン地蔵尊」を知っているか?
文字通り、建物にビルトイン(組み込み/埋め込み)されたお地蔵さんのことである。路上観察における一種のカテゴリ、観察対象と思ってもらえればよい。ツイッターで「#ビルトイン地蔵尊選手権」と検索していただければ、雰囲気が分かるだろう。名づけ親であるmakes no sense氏(@onmusiconlife)のほか、何人もの人が写真を上げている。
「地蔵尊」とあるが、祠であれば何でもよいらしい。また、「選手権」とあるが別に1位を決めるわけでもない。ネーミングは語呂の問題である。地蔵といういかにも伝統的な存在が、近代的なビルに埋め込まれる。そのギャップがなんとも魅力的だ。makes no sense氏はこれを「収納される信仰心」と形容しているが、その表現もまた素晴らしい。
お地蔵さんの多い京都には、当然ビルトイン地蔵尊もたくさん存在する。西陣を散策しているとときどき遭遇するので、私はそのたびに写真を撮っている。しっかりとお地蔵さんの居場所が確保されているところに優しさを感じ、嬉しくなる。
お地蔵さんとは、非合理の象徴であると思う。直接的には経済的価値を生むわけではないお地蔵さんのような存在は、世の中にいくつもある。我々が生きる「社会」という建物は「お地蔵さん」をビルトインできているだろうか。
地図はデカければデカいほどよい、という安直な自説をここに開陳する。長年の持論というわけではなく、ほんの小一時間前に思いついた考えである。
ちょうどこのコラムを書いている今日、オサノートのリレーコラム執筆者で交流をする会があった。場所はオサノートの読者ならおなじみ、「KéFU stay & lounge」である(ピンとこない人は直ちに、直ちに調べてほしい)。そしてKéFUの壁には京都の地図が大きく描かれている。デカい。
これを見て思った。地図は大きさこそ正義だ。江戸時代の絵図には、たたみ一畳分ほどもあろうかという大絵図もある。部屋いっぱいに広げ、まわりを囲んで見たのであろう。地図は全体と部分の関係が重要だ。細部の街路形態と全体の都市構造の両方を見ようと思うと、やはり地図は大きくあってほしい。
大きい地図を置くなら大きい空間が必要だ。伊能忠敬の伊能大図なんて体育館いっぱいに広げないといけないそうじゃないか。そんな大きな空間は当然地図にも描かれる。もっと大きい地図だと、“地図が地図に描かれる”なんてこともあるかもしれない。じゃあ現実の街そのものと同じ大きさの地図だと…?
うーん、大きすぎるのも考えものだ。KéFUの地図くらいがちょうどいいのかもしれませんね。
街角に古写真が吊るされていた。石畳が敷かれ風情ある町並みが広がる西陣大黒町界隈の一角だ。ちょうどこの日は町内の行事があったようで、近くに設けられた舞台で歌や仮装などが行われていた。会場には屋台が出され、近隣の介護施設の人たちも集まっていた。もう2年ほど前のこと。コロナ禍以降はすっかり見られなくなった光景だ。
写真には昭和の京都の姿が写されていた。町内の人から集めたものだろうか。きっとここに集まっている人たちにとっては、若いころを思い出させる懐かしい風景なのだろう。二条の駅前にあったという櫓を持った旅館や、まだ街路樹も十分に育っていない堀川通など、よく知る場所の知らない風景に、私はしばし足を止めて見入っていた。
古写真は場所の記憶の饒舌な語り部だ。たとえモノクロであろうとも、それは色鮮やかに当時の光景を伝える。視覚だけではない。音も。匂いも。古写真の語りは、やはりその場所で見てこそ一番伝わってくる。私はもっと、街角に古写真が増えてほしい。今まさに自分がいる場所の、ほんの少し昔。それが分かれば、まち歩きはどれほど楽しくなるだろう。