あちこち好奇心のまま出歩く私は、面白い!と思う人材に出会うことは事欠かない。
京都でも様々な生き方をしている濃ゆいメンバーを友人が紹介してくれる。
2021年の年始のこと、友人たちと「いちおしの和菓子・洋菓子を味わう会」を開催。主催の友人と打ち合わせにやってきた、西陣育ちの長唄三味線奏者の三宅さんと知り合った。
聞けば、伝統芸能や文化に小さなうちから親しんでもらおうと考案したペットボトル三味線のワークショップを行っているという。ペットボトルで三味線?!と驚いたものの、弾かせてもらったら、まちがいなく三味線の音色でハマる。身近な素材を使っていて、軽くて扱いやすいし、子どもが楽しめる素晴らしい代物だ。写真は、移動音楽実験室スタジオ☆ムジカの一員として長岡京でのイベントの際に撮った1枚。スタジオ☆ムジカは自由な音遊びの場で、大人にも子どもにもおすすめしたい素敵な活動。
そんな三宅さん、じつはスイーツ男子であることが発覚。次の集まりにて、ロールケーキ、ゆずのバスクチーズケーキ、フィナンシェと数々の自作スイーツを焼いて持参されるではないか。これまた、甘みの付け方が絶妙で、びっくりするほど美味しかった。
メンバーMEMBER
もう一つの椅子川原さえこ
京都府長岡京市在住。フリーランスのリサーチャー、保育士。「もう一つの椅子」という名義でまちのランドスケープ(風景)研究を行う。東京下町から京都へ来て約1年。観光客でもなく京都の地元民でもない境界の視点でふらりと歩いたまちの景色を描く。
去年、2021年は3月半ばで京都の観測史上最速の桜の開花のニュースが聞こえた。ネットであやふやに見かけた「一条戻橋の桜はもう散り始めているらしい」との情報で、3月末の夕刻になって慌てて向かった。一条戻橋は、文章博士・三好清行の葬列がこの橋を通っているときに、死の知らせに駆けつけた息子・浄蔵がどうか戻ってきて欲しいと誠意を込めて祈願し、父親が一時蘇生して父子の交流を温めた伝説から「戻橋」の名前になった謂れがある。桜はその儚さから死と結びついたイメージがあり、京都で眺める桜は幽玄さを感じる。まして死者が蘇る伝説がある一条戻橋の桜!と想像を膨らませていったら、儚さの象徴ともいえる薄いピンクが舞い散るソメイヨシノではなくピンクの色が濃い別の種類だったようだ。だがイメージと違ってがっかりということもない。周辺住民の憩いの場、堀川の清流をゆっくり散策する人たちの目を楽しませ春の到来を告げていた。
そのまま一条戻り橋ともゆかり深い安倍晴明を祭神とする清明神社に立ち寄る。非接触型電子おみくじで出た番号のくじをひく。29番中吉。今年こそ良いタイミングで桜を眺めたい。まもなく京都で迎える三度目の春だ。
スマートフォンの本体バッテリーの交換のため四条へ。しばらくスマートフォンを預け、外に出ることにした。まず器の展示を見に、いつもの喫茶・ギャラリー好文舎へ向かう。烏丸で12番の市バス、堀川下長者町で下車。ほうじ茶を飲み、店主さんとおしゃべりして器を堪能し、さてランチに前から行ってみたかった店に行こう。縦は小川通と覚えているが、横の通りは?とポケットに手をいれたが携帯がなく調べられない。そこで、喫茶ゾウのある中立売通を真っ直ぐ西のほうに行けば、KéFU stay &loungeじゃなかったっけ?と西陣へと向かう。ぐんぐん歩けば千本通にあたる。が、途中で、なんとなく上る。やはり以前から行きたかったアフリカドックスという「アフリカ布や京友禅を扱うオーダーメイドの仕立屋」のある路地にあたる。浄福寺通。お店はお休みの日。一条通から西陣京極商店街を横目に、千本へ。さて、上るか下るか。京ごよみ手帳の中に地図があることを思い出し、道を確認。今出川へ上る。千本今出川の喫茶静香もいいな、と思ったらこれまた定休日。最後はお地蔵さんの祠を目印に、KéFUに到着。
ちょっと遅めのランチ、ごちそうさまでした。
昨年12月のこと、北野商店街のフリーマーケットに立ち寄る。
京都の上京区を中心にマイ屋台を作って楽しむ友人たちがおり、屋台で出店していた。彼らは地域の人の輪をつなげる様々な活動をしている。まちのみんなでホップを育てる活動をしているエビバデ京ほっぷのブースで、ホップの蔓でつくったリースをいただいて、遅ればせながら年末年始のお休みに飾り付けをしてみた。
京都府に住むようになってちょうど丸2年。越してから新しく出来た友人たちは、誰かの暮らしに小さくともワクワクする光を灯す人たちだった。
引っ越す前、私のことをよく知る人生の先輩に、「さえこちゃんは暮らしを大事にして生きているから、きっと京都が合うんじゃない?」といってくれていた。
暮らし始める前は「そうなのかなあ?」と思っていたけれど、季節季節の風習や祈りが日常に織り込まれた暮らしを昔から守っている人たちはもちろん、屋台つくりなど、新しい取り組みで人と人の笑顔がつながる世界を作ろうと、自ら楽しんで生きている人たちに出会えたことが何より嬉しい。
2022年も素敵な1年になりますように。
私も誰かがあかるくなれるような、小さな光を灯しつづけていこう。
去年の夏のこと。今や、それがなんであったか忘れてしまうくらいほんとうに些細な、何というわけではなく、ボタンを掛け違えたような心のおさまりの悪さを抱えていた。新しい街に住み始め半年ほどすぎて、生活に慣れてきたからこそ、内に溜まったストレスだったのだろう。
地蔵縁日のある24日、千本上立売にある石像寺、通称・釘抜地蔵に立ち寄った。
石像寺は、弘法大師・空海が創建し、唐から持ち帰った石で空海自らが彫った地蔵菩薩が本尊だ。釘抜地蔵の由来は、人々のさまざまな苦を抜きとってくれるという苦抜(くぬき)地蔵が釘抜(くぎぬき)地蔵になまったという説、室町時代に両手の痛みのためにこの地蔵に祈った大阪商人の夢枕にお地蔵さまが立って、手から釘を抜いたという伝承から釘抜地蔵になったという説もある。境内には多くの釘の奉納がありその信仰への人々の思いを物語っている。同時に地元の人の参拝も多いお寺で、近隣の人が日常的に訪れ、よく手入れされた気持ちの良い風が流れている。
住職の法話を聞きながら、夏の青空と、セミの声と風に揺れる木々の音を聞いていたら、わたしの中の些細なモヤモヤは、いつの間にか消えていた。
オサノートリレーコラムの書き手である宇野さんが営む好文舎さんでは、京都を拠点にした作家さんの工芸品などの展示がほぼ月替りで行われている。
ときめく、しかもお手頃価格な陶器の作品にしょっちゅう出会ってしまい、
「このままだと、私はうつわ道楽になってしまう!」と心配になる。
日々、季節とともに生き、心と体で全てを味わうのが私の人生。
じゃあ、仕方ない。
2021年の初め、これは!と手にした「ゆるい鳳凰」という、ふわふわと軽やかに飛ぶ鳳凰の絵付けのお皿がお気に入りで、よくお茶請けに使っている。
鳳凰だけど畏まってなくて、ゆるくてふわふわ軽く飛んでて、「フラットな陽の明るさで進む」を意識した今年の私の感じにぴったり。
さらには、淡いブルーの色合いが素敵すぎて買った器も漬けものや煮物に重宝している。
ああ、このまま京都に住み続けたら、やっぱりうつわ道楽になってしまいそうだ。
誕生日祝いにAmazonのほしいものリストからプレゼントを送ってくれた人に、私の京都のお気に入りをお返しで送る企画をした。好文舎さんでみつけた可愛いりんごが絵付けされた器をある友人に送った。いっそ友人もうつわ道楽にしてしまえ、と思っている。
西陣の名の由来は、応仁の乱で西軍・山名氏の陣の跡。戦乱を逃れ京都から離れていた織物職人たちが戻ってきて織物業を再開したことから、職人たちの住むエリア一帯を西陣と呼ぶようになったと言われている。
それに対して「東陣」と呼ばれるエリアはないのだが、東軍を率いた細川氏の屋敷跡の南にある、小川児童公園の一角には「東陣跡」の説明看板が置いてある。
さて、この公園。適度に距離を取ったベンチが配置されていて、昼休みとなると、ポツンポツンとベンチに腰掛ける老若男女。何をするでもなく人それぞれ、ぼんやりと休むのにちょうどいい公園だ。
私もたまに、その一人。
ある日もぼんやりベンチに座っていると、4人のお坊さんが列をなして、公園の中を斜め一直線、ザッザッザッと草履のいい音を立ててスピーディーに横切っていった。そして公園の敷地の外、角にあるお地蔵様へ何か唱えた後、そのまま通りを去っていく。
公園で休む誰も気には留めていない。のんびりとした時の止まった昼下がりを、さらに真空パックにしてそこに置いてけぼりにされた気がした私は、休憩時間を終えて公園を出る。静かに止まっていた時間を進める。
智恵光院通を北から南に歩く。
早朝の京都は静かだ。
家の玄関前を履く人がちらりほらりいる。
以前、東京で古本屋の店番をしていたときに、オーナーが「門前の掃除は商売の基本」と言っていた。
それ以来、店番の際に店前を履く時は「門前の掃除は商売の基本」と唱えるようになった。
普段の通勤路で、必ず門前を朝履いていらっしゃる会社がある。そのほうきの角度や履く強さがとても素敵なので、私も自分の仕事先の清掃で玄関掃除をするときに、その角度と強さを念頭に置いてほうきをかける。相変わらず「門前の掃除は商売の基本」と唱えている。
京都の道沿いにはお地蔵様の姿が多くある。
智恵光院通の朝には、掃除とお供えのお手入れをする方の姿も。
生活の中に溶け込んだお地蔵様たち。
京都の通り歩きをしながら、お地蔵様の前を通るときに、お地蔵様の真言「オンカカカビサンマエイソワカ」と3回私は唱える。
早朝の京都の通りは静かだが、私以外にも、心の中で祈りを唱えている人があちこちにいるのかもしれない。
祈りと暮らしがそばにある道が好きだ。
北野天満宮で毎月25日に開催される天神市。
友人に誘われて行く。昔から一度は行ってみたいと思っていたが初めての訪問。
その日はあいにくの雨だったが、友人と、そのまた友人とで端から端までじっくり出店をみていく。境内の裏手の道路まで続いており、1時間2時間と時間をかけて回る。
はじめてご一緒した友人の友人は、骨董集めや古い着物のリメイクの達人だった。傘もささず黙々と着物の端切れや骨董を眺めていく。ふっと手にとって値段を聞いた魚の柄の大皿が、思いの外高い値段でそっと戻す。
達人はまた何か手に取る。古い鉄道のレールの一部だ。すべすべと手触りを確かめる。フォルムが滑らかになった小さめのレールだ。達人は「いいねえ」といい私も「これはいいねえ」と通じ合う。しばらく悩んで、これもそっと戻す。
だんだんと本気モードになった我々は別行動を開始。最後は思い思いに気に入ったものを抱えて集結した。
帰宅した後も「あのレールは良かったなあ、買えば良かったかな」と達人は嬉しそうに思い返していた。でも買わない。それも出会い。
西陣を通る縦の通り、土屋町通を南から北へ歩く。
住宅地が続く中、「平安宮内裏弘徽殿跡」という石碑が見えた。案内看板であたり一帯は、平安京の内裏だった場所とわかる。すぐ近くに「清涼殿」の文字を見つけ密かに興奮する。
このところ、菅原道真を祀る天満宮信仰について調べていたからだ。
930年のこと。京都に災害が相次いだ際に、天皇をはじめ政治家たちがその災害対策を話し合っている最中の清涼殿に落雷が落ちる。相次ぐ災害と合わせ、落雷は太宰府に左遷され亡くなった政治家・菅原道真の怨念の仕業とおそれられたという。当時は、御霊会と呼ばれる死者の怨霊を恐れ神として祀る思想があり、その怨霊を鎮めるために道真を神として祀る天満宮信仰が展開した。
のちに、怨霊への恐れは消え、子どもの時より秀才だった道真にあやかって天満宮は学問の神様として知られるが、信仰発祥の契機の一つである落雷事件が起きた「清涼殿」が、ここにあったのだ。
そんな平安宮内裏跡一帯を通り抜け、西陣京極商店街につくと、竹屋町通からスタートした土屋町通は終わる。歴史の一場面が溶け込んだ地が、日常の路地に静かにあるのは、京都歩きの醍醐味だなあと思う。